芹沢光治良年譜

西暦 和暦 年齢 内容
1896 (明治29年) 0歳 ・5月4日誕生。
1900 (明治33年) 4歳 ・父常晴は天理教沼津連合集談所に入り、無所有の伝道生活に入る。
1904 (明治37年) 8歳 ・楊原小学校入学。
1910 (明治43年) 14歳 ・静岡県立沼津中学入学。
1911 (明治44年) 15歳 ・二年西級の時、「学友会報」に「夜の歸り道」作文を掲載。
1912 (明治45年)(大正1年) 16歳 ・「学友会報」記念館号に「記念館 心のひゞき」作文を掲載。
1913 (大正2年) 17歳 ・学芸部委員に選ばれる。
1914 (大正3年) 18歳 ・文芸部委員及び学友会幹事に選ばれる。                               ・「学友会報」に短歌二首掲載。
1915 (大正4年) 19歳 ・「学友会報」に「卒業間際に」作文を掲載。                             ・沼津町立尋常小学校(現、沼津市立第一小学校)の代用教員となる。
1916 (大正5年) 20歳 ・第一高等学校文丁(仏法科)に入学。
1917 (大正6年) 21歳 ・有島武郎「草の葉」会に参加。谷川徹三を知る。
1918 (大正7年) 22歳 ・文芸部委員に推薦される。「校友会雑誌」に「失恋者の手紙」を掲載。
1919 (大正8年) 23歳 ・第一高等学校卒業(7月)、東京帝国大学経済学部に入学。(9月)
1920 (大正9年) 24歳
1921 (大正10年) 25歳 ・高等文官試験行政科に合格。 (菊池勇夫と三島龍沢寺、御殿場青龍寺で受験勉強のため合宿)
1922 (大正11年) 26歳 ・東京帝国大学経済学部卒業。(3月)、農商務省に入省。(4月) 山林局を経て農務局農政課に勤務。
1923 (大正12年) 27歳 ・安生鞠子ドイツに留学。(5月) 祖母くめ死去。関東大震災にあう。(9月)
1924 (大正13年) 28歳 ・農林事務管に任官、畜産局畜政課に配属。
1925 (大正14年) 29歳 ・1月〜3月:山林局に移り、秋田営林局に赴任。                    
・4月:愛知電鉄社長藍川清成次女「金江」と結婚。                       ・6月:神戸港より白山丸で渡仏。                                
・7月:百武源吾と義兄弟の契りを交わす。 ・ソルボンヌ大学に入学し、シミアン教授の 研究室で貨幣論を研究。在仏3年間に、「三木清」「佐伯祐三」「ジャック・ルクリュ」「ルイ・ジュウベ」「マリ・ベレ」「アスラン」「ケッセル」「ジュール・ロマン」「ベルグソン」等と交際をした。「アンドレ・ジード」「ポール・ヴァレリー」にも会う。
1926 (大正15年)(昭和1年) 30歳
1927 (昭和2年) 31歳 ・長女「万里子」誕生。(1月)
・「貨幣の数量と価値の変動」完成後肺結核でフランスやスイスで療養。
1928 (昭和3年) 32歳 ・アンドレ・ルボン号で帰国。(11月)
1929 (昭和4年) 33歳
1930 (昭和5年) 34歳 ・「ブルジョア」改造社の懸賞小説一等に当選(4月)。                    
・「我入道」を「改造」に掲載(9月)。                          
・中央大学講師として貨幣論を講義する。                          
・次女「朝子」誕生。(1月)      
1931 (昭和6年) 35歳 ・「明日を逐うて」を「東京朝日新聞」に連載。(4月〜6月) 
・外務省文化情報部課長「市河彦太郎」の紹介で、林芙美子・城夏子・平林たい子等を知る。
1932 (昭和7年) 36歳 ・「昼寝をしてゐる夫」を「日本国民」に掲載。(8月)                   
・「椅子を探す」を「改造」に掲載。(12月)
・軽井沢に別荘を新築。(8月)    
1933 (昭和8年) 37歳 ・「橋の手前」を「改造」に掲載。(4月)                          
・三女「文子」誕生。(7月)
1934 (昭和9年) 38歳
1935 (昭和10年) 39歳 ・日本ペンクラブ会計主任となる。
1936 (昭和11年) 40歳 ・「文学界」の編集同人となる。(9月)                            
・実母はる死去。(9月)
1937 (昭和12年) 41歳 ・「菊の花章」(「愛と死の書」第1章)を「改造」に掲載。(12月)
・石丸助三郎氏死去。(10月) ・義母藍川しむ死去。(12月)
1938 (昭和13年) 42歳 ・「霊あらば」(愛と死の書」第2章)を「中央公論」に掲載。(6月)
・「孤雁」(愛と死の書」第3章)を「改造」に掲載。(8月)                    
・四女「玲子」誕生。(7月)
1939 (昭和14年) 43歳 ・「南寺」を「中央公論:に掲載。(3月)                        
・「愛と死の書」を「小山書店」より刊行。(7月)
・早稲田、慶応、一高、東大生が書斎に集まる。
1940 (昭和15年) 44歳
1941 (昭和16年) 45歳 ・「孤絶」を「文学界」に連載。(10月)(18年6月完結)              
・保護検束のため中野署へ出頭。(12月8日)
1942 (昭和17年) 46歳 ・「巴里に死す」を「婦人公論」に連載。(1月〜12月)               
・6月、陸軍より中支那に宣撫工作要請、7月、海軍より南方作戦に従軍要請があるが、健康を理由に拒否。
1943 (昭和18年) 47歳
1944 (昭和19年) 48歳
1945 (昭和20年) 49歳 ・「離愁」を「全国書房」より刊行。(12月)                     
・軽井沢で終戦を迎える。(8月)
1946 (昭和21年) 50歳 ・多聞小学校のPTA会長を務める。(3月)                     
・実父「常晴」死去。(5月享年75歳)
1947 (昭和22年) 51歳
1948 (昭和23年) 52歳 ・「死者との対話または唖の娘」を「社会」に掲載。(3月)            
・義父「藍川清成」死去。(9月)
1949 (昭和24年) 53歳
1950 (昭和25年) 54歳
1951 (昭和26年) 55歳 ・ローザンヌの世界ペンクラブ大会出席。(5月)                 
・「パリに死す」の仏訳出版をロベール・ラフォン社と契約。(5月)
・ローマでピオ十二世に謁見。(9月)
1952 (昭和27年) 56歳
1953 (昭和28年) 57歳 ・「パリに死す」が「ロベール・ラフォン社(森有正仏訳 アルマン・ピエラール監修)」より刊行。(9月)
1954 (昭和29年) 58歳 ・「一つの世界 又はサムライの末裔」を「中央公論社」より刊行。(4月)  
・「パリに死す」を「プチ・エコー・ド・パリ」に半年間連載。(10月)
1955 (昭和30年) 59歳 ・「サムライの末裔」が「ロベール・ラフォン社(青木和子仏訳 アルマン・ピエラール監修)」より刊行。(5月)                                     
・「巴里婦人」を「光文社」より刊行。(11月)
1956 (昭和31年) 60歳 ・仏訳「パリに死す」が「マリ・クレール」に連載され、ベルギーの読書クラブ賞次席となる。
1957 (昭和32年) 61歳 ・「芹沢光治良自選作品集 全六巻」を「宝文館七月完成」より刊行。(4月)  
・スウェーデンアカデミーよりノーベル文学賞候補に挙げられる。
1958 (昭和33年) 62歳 ・「アイダ婦人(原題「巴里婦人」)」が「ロベール・ラフォン社(小野吉郎仏訳 アルマン・ピエラール監修)」より刊行。(10月)                                     
1959 (昭和34年) 63歳 ・「教祖様」が「角川書店」より刊行。(12月)                     
・フランス詩人連合より、「パリに死す」などに対して、フランス友好国際大賞が贈られる。(1月)                                       
・フランクフルトでの第三十回世界ペン大会に参加。(7月)
1960 (昭和35年) 64歳
1961 (昭和36年) 65歳 ・「愛と知と悲しみと」を「新潮社」より刊行。(11月)               
・アジア、アフリカ作家会議東京緊急大会に参加。(3月)
1962 (昭和37年) 66歳 ・「人間の運命」第1巻「父と子」を「新潮社」より刊行。(7月)
・「昭和43年11月まで書き下ろし刊行」
・ソビエト・ロシア作家同盟かr招待され訪ソ。(6月) 
1963 (昭和38年) 67歳 ・向井良吉作の「風に鳴る碑」が我入道に建設される。(3月)
1964 (昭和39年) 68歳
1965 (昭和40年) 69歳 ・「人間の運命」(1部6巻)が芸術選奨文部大臣賞受賞。(5月)
・日本ペンクラブ会長に選ばれる。(10月)
1966 (昭和41年) 70歳
1967 (昭和42年) 71歳
1968 (昭和43年) 72歳 ・多年ユネスコ運動に尽くした功績により、勲三等瑞宝章の授与。(4月)
1969 (昭和44年) 73歳 ・スウェーデンアカデミーより、ノーベル文学賞推薦委員に選ばれる。(2月)     
・芸術院賞授賞。(6月)
1970 (昭和45年) 74歳 ・沼津市我入道まんだが原に「芹沢文学館」会館。(5月)             
・日本芸術院会員に選出。(12月)
1971 (昭和46年) 75歳 ・我入道集会所で講話。(10月)
1972 (昭和47年) 76歳 ・「遠ざかった明日」を「新潮社」より刊行。(1月)                 
・長女「万里子」死亡。(1月)                                
・文学館と沼津ロータリークラブで講演。(3月)
・「日本文化研究国際会議」への出席要請のため、フランス・ソ連・韓国を訪ねる。(5月)
・「日本文化研究国際会議」が東京・京都で開催され議長を務める。(11月)       
・香貫小学校の校歌の作詞・作曲と講演。(12月)
1973 (昭和48年) 77歳 ・NHK銀河テレビ小説「坂の上の家」を放映。(12月) 「高橋玄洋脚本、加藤大介主演」
1974 (昭和49年) 78歳 ・「芹沢光治良作品集 全16巻」を「新潮社」より刊行。(2月)「翌年5月完結」      
・日仏文化交流の功績者として、「コマンドール章」を贈られる。(9月)
・文学館で講話。(10月)
1975 (昭和50年) 79歳
1976 (昭和51年) 80歳 ・文学館で「いのちは大切だ」と題して講話。(4月)
・文学館で芹沢光治良先生長寿祝賀会と講話。(5月)             
・文学館で講話。(11月)
1977 (昭和52年) 81歳 ・文学館で「神はソ連に於いても」と題して講話。(4月)                    
・沼津市スルガホールで「一本のたんぽぽ」と題して講話。(11月)       
1978 (昭和53年) 82歳 ・文学館で「松と杉との妥協」と題して講話。(4月)
・沼津精華高校で「人間の行き方」と題して講話。(11月)                  
・沼津市歯科医師会記念集会で「沼津にうまれて」と題して講話。(11月)    
1979 (昭和54年) 83歳 ・文学館で講話。(4月)  
・スルガホールで「長く生きて」と題して講話。(11月) 
1980 (昭和55年) 84歳 ・沼津市名誉市民章を贈られる。(2月)
・沼津市名誉市民章贈呈式で「沼津とわたし」と題して記念講演を行う。(4月)
・我入道東町に生誕碑が建立。(11月)
1981 (昭和56年) 85歳 ・「愛の影は長く」を「新潮社」より刊行。(4月)                   
・文学館で講話。(4月)                                 
・文学館で「夫婦は二本の木」と題して講話。(11月)
1982 (昭和57年) 86歳 ・妻「金江」死去。(2月) (享年79歳)                        
・沼津市民文化センターロビー壁面に詩碑完成。(7月)             
・我入道の浜辺に芹沢光治良文学碑(孤絶の碑)が建立。(8月)
1983 (昭和58年) 87歳 ・文学館で講話。(4月)
・文学館で「このごろ考えること」と題して講話。(11月) 
1984 (昭和59年) 88歳 ・文学館で講話。(4月)                                 
・我入道連合自治会館正面に詩碑完成。(4月) 
・文学館で「生かされて八十年」と題して講話。(10月) 
1985 (昭和60年) 89歳 ・文学館で「私の心を故郷へ」と題して講話。(4月)                     
・文学館で「おやさまの語りかけ」と題して講話。(11月) 
1986 (昭和61年) 90歳 ・「神の微笑」を「新潮社」より刊行。(7月)                     
・文学館で「おや神に導かれて」と題して講話。(4月)
・文学館で「富士山は神」と題して講話。(11月) 
1987 (昭和62年) 91歳 ・「神の慈愛」を「新潮社」より刊行。(7月)                     
・文学館で「老いの尊さ」と題して講話。(4月)                                      
1988 (昭和63年) 92歳 ・「神の計画」を「新潮社」より刊行。(7月)                     
・春、沼津市民センター前庭に詩碑建立。                            
・沼津東高等学校中庭に詩碑建立。(7月)                                       
1989 (昭和64年)(平成1年) 93歳 ・「人間の幸福」を「新潮社」より刊行。(7月)                     
・「『大自然の唯一の神』」に支えられて」を「朝日新聞」に掲載。(10月)                                       
1990 (平成2年) 94歳 ・「人間の意志」を「新潮社」より刊行。(7月)                                             
1991 (平成3年) 95歳 ・「人間の生命」を「新潮社」より刊行。(7月)                                             
1992 (平成4年) 96歳 ・「大自然の夢」を「新潮社」より刊行。(6月)                                        
1993 (平成5年) 97歳 ・3月23日午後7時、老衰のため自宅で死去。
・青山葬儀所にて無宗教による「故芹沢光治良儀お別れの会」。(4月6日) 
・「天の調べ」を「新潮社」より刊行。(7月)