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人間の運命 アーカイブ

2007年01月08日

七福神を歩いていると・・・Part2

以前七福神を歩いていたと、このブログに書きました。墨田の福七神は多聞寺でした。 多門寺があるところは、梅若町と言われています。隅田川に近いし、梅若町と聞くと、梅若丸を思いだします。草が生い茂る中、 梅若丸が葬られた塚はこのあたりかもしれないと考えていると芹沢光治良先生が能「隅田川」を見に行くところが、思いだされてきました。

人間の運命第6巻 (暗い日々)P502より

(上の二人の娘を連れて、日比谷公会堂に新交響楽団の演奏会を聴きに行った。 その演目のマーラーの亡き子を偲ぶ歌を聴き終わったその時)
「どうしてみんな泣いているの」 女学校二年生の次女がそっときいた。次郎はその休憩時間に、和達を探して、二階へ上ってみた。 和達にあったら、アッツ島にアメリカ軍が上陸した日に、野口兼資の「隅田川」を見た時の同じ感動を話したかったからだ。
お能の世界は、能楽堂にはいったとたん、遮断されて、戦時であることも忘れて、テンポのおそい豊かな雰囲気に包まれてしまう。 鑑賞者も現実の苦しい生活を知らないような表情で、和服の身についた貴族が多くて、次郎も能楽堂にいる聞は、 自由に美の世界に精神が羽ばたく喜びを感ずるのだが・・・その謡曲、「隅田川」も子を失った母の欺きをうたいあげたものだが、 年老いた野口兼資は、橋がかりにかかった瞬間に‥わが子を求めて京からはるばる関東まで辿りついて、疲れ果てた老母になりきっていた。 隅田河畔で、わが子の死を聞いての欺きを、野口兼資のしゃがれた声の謡が、却って聴く者に悲しみを強くうったえて、 その姿も舞もすばらしく完璧の出来栄えで、現実から虚構の美へ全鑑賞者を誘
いこんだ。しかし、奇怪なことに、その瞬間、多くの鑑賞者は現実でひたかくしにかくしていた悲歎が、意識の外へあふれ出たように、 ハンカチで教をおおって鳴咽しはじめた-こんな光景を、次郎はお能ではじめて体験して、たいへん感動したが、しかし、マーラーの 「亡き児を偲ぶ歌」・・・

 この「隅田川」を見たいと思い、映像を探しましたら、清元の「隅田川」からNHK出ていて、 これは見ました。老婆を「斑女の前」といいますが、中村歌右門は、その嘆きを哀感を湛えた清元の旋律と、斑女の前の母性愛、 それを見守る舟人の人間性が胸をうちます。しかし、能の「隅田川」は見ることが出来ません。そしたら、梅若町の多門寺で売っていました。 DVDでは、ありません。ビデオテープです。ただ、「能 隅田川」というシールがビデオに貼ってあるだけのものでした。ビデオを早速見ると、 野口兼資は宝生流でしたが、このビデオも宝生流です。

 

この感想などは、次回に書かせて下さい。ところで、「どうしてみんな泣いているの」 と二女が尋ねたとありますが、実際にこの演奏会の事を覚えているそうです。会場で実際に泣き声を聴き、不思議に思ったそうです。

2007年01月15日

能 「隅田川」

「隅田川」は、梅若丸を人買いにさらわれ、京都から武蔵国の隅田川まで流浪し、 愛児の死を知った母親の悲嘆を描く。この悲嘆を「人間の運命」では、隅田河畔で、わが子の死を聞いての欺きを、 野口兼資のしゃがれた声の謡が、却って聴く者に悲しみを強くうったえて」と書いています。能の各上演流派は、観世・宝生・金春・金剛・ 喜多とあります。芹沢光治良がなぜ宝生流の隅田川を見たというのかは、「水道橋」ということから、 水道橋にある宝生会の能楽堂(クリックして下さい)を指していると思われます。 宝生会能楽堂の案内は、ここをクリックして下さい。 宝生流は観阿弥の兄、宝生太夫を祖とする流派。江戸時代には徳川綱吉が特に愛好した。 謡の宝生と言われ、複雑な謡に特徴があります。

 隅田川のシテ(能に登場する人物のうち、主となって舞を舞う主人公)は狂女、梅若丸の母であります。 狂女物は 園田学園女子大学未来デザイン学部教授 五島 邦治氏によると、

「隅田川」のような子を捜し求めて狂乱する母を描く能は「狂女物」といわれ、 これ以前にも多く作られている。しかしそれまでは結末は母と子が再会を遂げるというハッピー・エンドに終っていたのが、 この能のみが悲劇的な結末に終ることになる。能はもともと「衆人愛敬」といわれ、祝言を本旨としていたから、結末を悲劇に終らせることは、 当時の能としては画期的なことであった。「隅田川」がそれだけ演劇としての完成度を意識して作られているということが想像できる。

とあります。

この作品の力が、能を見る者が哀しみから悲しみに転換したのでしょう。 「悲しみ」と「哀しみ」 の違いについては思いを胸中におさえ、口を隠してむせぶ事を表す。一方、「悲」は、心が調和を失って裂ける事を意味する。(斉藤 孝 『 「哀しみ」を語り継ぐ日本人』PHP研究所 2003)

 人間の運命では、戦争に対して懸命に戦争の不幸を耐えていた国民が、「隅田川」を見て悲しんだ。 結末を悲劇に終わらせる事によって、その哀しみの響きが見る者の心に共鳴し、心が露わになったのだろう。結末を悲劇に終わらせるのは、 ミュージカル「ウエストサイド」もウエストサイド初演時では画期的なものでした。筋を確実に理解させれば、 高校生は最後トニーがマリアの腕の中に倒れると、小さな悲鳴を上げます。この作品はなぜか音楽の授業で、音楽についてふれますが、 もう一つの私の主張「短気はいけない。命は大切に。」という趣旨の授業で取り上げています。

この話の続きは又次回に。

2007年02月07日

「人間の運命」に出てくる隅田川について

 芹沢先生が見た能「隅田川」についてですが、私達は残念ながら詳しくはありません。  園田学園女子大学の五島邦治教授は、私とのメールで宝生流の能「隅田川」について、 その特徴を知る事が出来ます。

 「引用された芹沢光治良の文を見て思い出したことがあります。私の小さいとき、子方として「隅田川」 の謡に出演したとき(40年以上前のことです)、観客の女の人がやっぱり謡を聞いて泣いておられました。能が伝統芸能である以前に、 当たり前の芝居だったわけですね。伝統芸能として珍重されてしまった昨今は、かえって本来的なものを見失ったような、 ちょっと寂しい気がしないでもありません。
「隅田川」は私の好きな曲で、よく見ますが、舞がないだけに難しい曲で、なかなかこれと思う
シテにはあたりません。 見るべきすべもないのですが、野口兼資の「隅田川」も見てみたかったと、感じました。宝生の水道橋の能楽堂では、何
度か宝生流の能を見ましたが、橋掛かりが長くて、とても優雅な能舞台だったと記憶しています。」とあります。

 一度宝生流の隅田川を見に行きたいと思います。

 



 

2007年02月14日

蔵前工業高等学校

 「人間の運命 友情」の中に森次郎が代用教員に採用される時、 沼津の小学校長が自分の息子が工業高校に入学した事を自慢するところがあります。愛好会会員安藤氏よりそこの学校が、 蔵前工業高等学校だそうです。

蔵前工業高等学校は、関東大震災により目黒に移転され、現在の東京工業大学です。

蔵前工業高等学校は、現在第六天榊神社〒111-0051 東京都台東区蔵前1-4-3 )になっています。


 榊神社は、大正12(1923)年の関東大震災の後、現在地(蔵前1-4-3)に3度目の遷宮を果たしました。 この地には明治14年創立の「東京職工学校」(明治34年「東京高等工業学校」と改称、後の「東京工業大学」)がありましたが、 関東大震災により目黒に移転されたのです。なお、現在東側に隣接する「蔵前工業高校」は、大正13年に「浅草専修学校」 として設立されています。また、「東京職工学校」以前には初めての官立公共図書館「浅草文庫」がありました(明治8~14年)。 榊神社の境内には、これらを記念して「浅草文庫跡碑」と「蔵前工業学園之蹟」が建立されています。

 

 安藤さん、ありがとうございました。

2007年04月29日

多聞小学校PTA会長について

g 愛好会会員Sさんから、原稿をいただきました。その博学、その男らしさゆえに私は、 惚れ込んでいます。多聞小学校についての文章、2回に分けて報告します。

 華麗なる-P T A会長の系譜
世田谷区立多聞小学校の歴代PTA会長
初代 芹沢光治良  昭23~26
2〃 生悦住求馬    27~29
3〃 関根信義   29~30
4〃 広川弘禅   31~33
5〃 和田義男   34
6〃 斉藤多美子  35
7〃 広川シズヱ  36~37
   (以下省略)

歴代校長
 3代 安西庫司   昭12.3.31~23.8.24
 4〃 日野清直       23.4.6~26.2. 6


(『人間の運命』に登場する校長)
*安田校長・・・安西庫司
*五藤教頭・・・校長代理、校長、日野清直

多聞小学校の〔沿革の概要〕から幾つかを拾い出すと
19・8・15  長野県北安曇郡平村木崎へ学童集団疎開
20・5・25  戦災により校舎全焼  *(東中野の芹澤邸も同日被災)

20・11・8  集団疎開学童帰校、 代沢国民学校を借用して授業開始

21・5・19 代沢国民学校火災焼失、太子堂国民学校を借用して授業継続

22・3・15  再建校舎落成、木造平屋建7教室
22・4・1   世田谷区立多間小学校と校名変更
25・9・1   完全給食開始
28・3・8   校歌「丘の学校」制定 *(神川漁史作詞、中田書直作曲、芹沢光姶良選)
*昭和26年、ローマ教皇ピオ12世の教皇メダルが芹澤光治良によって伝達される(*印部分は筆者加筆)
 多聞小学較PTAの歴代会長の顔触れを見ると、思わず「ズルイ」と叫びたくなる。校舎の再建や拡充、 或いは他校にさきがけて備品を獲得する為には、これ以上の人物はそうざらにはない、と思われるような陣容である。
 芹澤光姶良は、昭和22年度に中途から同校の父兄会長になり、翌23年にはPTAの発足に伴って初代のPTA会長になった。 戦前から自由主義者と目され、戦後は文化人(この言葉は嫌いだが)として知名度の高い芹澤光治良を会長に頂くことは、 同校にとって名誉なことであり、また利益も大きかった。
 22年3月にできた校舎は雨漏りはするわ、風の日には天井の馬糞紙に砂挨が落ちる音がするわといったひどいありさまである。 それよりも第一に教室には机も椅子もない。会長が区役所の区長室に挨拶に立ち寄っただけで、 いつになったら搬入されるかも分からない机や椅子が新学期に間にあうのである。「先生、筆の力は偉大ですね。先生の文章 (B新聞の学芸欄に書いた随筆『戦災者』)を区長が読まなかったら、あの机や椅子は他校へ運ばれたかも知れません。 用度課長も冗談のように申しておりました・・・伝家の宝刀を持った会長を選んだから、多聞は区内で注目校になったが、 伝家の宝刀はめったに抜かないようにしてもらいたいものだなんて」と、机や椅子が入ったことを報告に来た校長に言わせている(『人間の運命』 文庫本 第14巻355~356ページ)
 バラック住まいや間借りで、窮屈に、時には卑屈に暮らしている学童に、せめて学校だけでも堂々として子供の心を高揚できるようにしたい- と願う会長であった(353ページ)
ピアノの購入をめぐる話をここに持ち出すのは蛇足ということになろう。
 第二代の会長には生悦住求馬(いけすみもとめ)。旧内務官僚で、佐賀、宮城、千葉県知事、文部省社会教育局長、科学局長、東京都教育局長、 戦後は私立学校教職員共済組合常務理事、学徒援護会理事長、日本肢体不自由児協会会長を歴任し、平成5(1993)年12月13日に、 肺炎のため千葉県八千代市の総合病院で93年の一生を終えた。
 戦後、廃校になるところであった多間小学校を救った人物と記憶されてもよい。
 昨年(’93)は、3月23日と12月13日に、多間小学校PTAの初代と第二代の会長が相次いでこの世を去るという、 そのような年まわりでもあった。
  生悦住求馬(三重県M.33.4.26)と妻・浪子(兵庫県M.38.6.)の間には、玲子(S.4)、厚子(S.5)、満 (S.6)、望(S.9)の4人の子供がある。
 次男の望は、多闇小の〔沿革の概要〕に抜き書きした学童集団疎開で4年生のときに長
野県に行っている。従って、生悦住が会長になった昭和27年度には多聞小に通う子供はいない。夫人が副会長をした時でさえ、 子供の卒業後のことであった。
『人間の運命』には、副会長のひとりに、都の教育局長だった小栗氏の夫人という人が出てくる。
339ページ(文庫本)で、校長代理の五島は森次郎に次のように話しているのだが‥‥
「実は、今まであった父兄会や後援会を全部解消して、PTAを組織しろという(GHQの)
指令で、本校では因っておるところです。PTAは教師と父母の会であるから、父母でない者はどんな名義でも、 会員にしてはならぬという厳命です。本校は今日まで、後援会がありまして・・・学区内の資産家が会員になって、島代議士を会長に、 都の教育局長を副会長にして、物心両面の援助をいただいておりました。おかげで、来年度には、九教室の増築も完成して、 全校生徒がこの多聞の岡に集まり、二部教授でなくて、まともな授業がはじめられます。しかし、都や区では教室は増築してくれますが、 机や教室の備品などはなかなか手がまわらなくて、早く入れてもらうためにも、後援会のご援助を請わなければならないのに・・・、 後援会の会員の多くは、PTAの会員の資格がございませんので、本校では弱っております」、と。
 小栗夫人が誰であろうと、作中の人物だから読み流してもいいのだが、都の教育局長の夫人となると捨ててはおけない。 生悦住民と小栗氏を同一人物と見傲すべきであり、小栗夫人は生悦住浪子ということになる。

2007年05月02日

多聞小学校会長について(2)

 生悦住求馬は、昭和18年7月に、文部省科学局長から都の教育局長に移った。東京都知事・ 松村光麿は、陸軍中将・辰巳栄一(佐賀県生れ、M.28.1~S.63.2.17、佐賀
中学、陸士、陸大卒)が主張する学童疎開論に共鳴して、密かに教育局にその具体策を探らせることにした。辰巳は、 前後3回も駐英大使館什武官として過ごし、第2次大戦勃発後ドイツ空軍のロンドン大空襲を身をもって体験している。 太平洋戦争が勃発後交換船で帰国すると、東條英機(首相・陸相・参謀総長)によって東部軍参謀長に任命された。 辰巳は軍部内に学童疎開の必要性を説いてまわったが、東条は「日本が米英に勝つには日本古来の大和魂、国民精神を十分発揮するにある。 国民精神の基盤は日本の家族制度であって、死なばもろともという気概が必要だ。疎開などもってのほかだ」と、反対した。昭和18年9月には、 ラヂオを通じて「帝都を離れるものは非国民だ」と、演説したほどであった。
 数県の県知事を歴任した文部省の科学局長と東京都教育局長とでは、地位の重さが随分違うように思われるのだが、 生悦住を動かしたのは松村都知事の「戦火から子供の生命を守るためには学童疎開が必要」という信念であったようだ。
 生悦住求馬は、学童集団疎滞へ向けて秘策を練る。例えば郊外の公的施設を使い、希望者を募っての疎開生活の実験などもそうである。新聞に 「疎開先の児童は平穏な環境で、十分な食料に恵まれて楽しく勉強している」と書かせたりする。同時に集団疎開の受入れ先も東北、 信濃地方に着々と確保していた。そのうちに、戦況は日に日に悪化の一途をたどり、東条首相も疎開を認めざるを得なくなった。
 昭和19年3月3日、「ー般疎開促進要綱」が閣議決定。これを受けて東京都は「学童疎開奨励二関スル件」を発令した。これは保護者に対し、 縁故者を頼って児童の疎開を促すものであった。また、郊外の施設を使った事実上の集団疎開の実施なども通達した。
 都の児童数47万人のうち7万5千人が、4月1日現在で縁故疎開をしているが、短期間に16%もの児童が疎開したということは、 一般市民が学童疎開が実施されるのを待ちわびていたことを推測させるのに十分な数字である。
都は、ひきつづき再三にわたって政府に対し「集団疎開」を要望する。
 昭和19年6月、海軍がマリアナ沖海戦で壊滅的な打撃を被ると、東条内閣はついに「学童疎開促進要綱」を閣議決定した。と、同時に、 都が計画していた「集団疎開」に踏みきってもよい、という決定も下した。
東京都の「学童集団疎開」は、昭和19年8月4日に二盲人が上野駅を後にしたのを皮切りに、東北地方や信濃地方へと、約20万の学童 (3~6年生)が続々と親もとを離れていった(主要都市の集団疎開児童数は40万)。今年は、それから、五十年になる。

 「教育本来の仕事はあまりなく、ほとんどがこうした児童を護る仕事だった。親が戦災で死に、 疎開した子供だけ助かって戦災孤児も生じたが、次代を背負う子供が助かったのは良いことだった。 戦時施策で役に立ったのは学童疎開だけだったと後で誉められたが、
私としてはやはりこの仕事は快心(ママ)の事業だったし、よくやり抜いたと思った」と、生悦住求馬は著書の中で述べている。

 旧内務官僚に生悦住のような人がいたことは、驚きに値することであった。内務省といっても、 戦後育ちの人には分かり難いだろう。東条内閣を例にとると、総理、外務、内務、大蔵、陸軍、海軍、司法、文部、農林、商工(途中農林、 商工を廃止、農商、軍需両省を設置)、逓信、鉄道(途中両省を廃止、運輸通信省を設置)、拓務(途中廃止、大東亜省を設置)、厚生、国務 (企画院総裁)、書記官長で構成されていた。
 内務省は全国の知事・市長の座を一手に握り、警察機構を掌握し、今の建設省、労働省、自治省などが持っている諸々の権限を持ち、なおかつ、 例えば生悦住が文部省の社会教育局長や科学局長を歴任したように、あらゆる省庁に人員を配置して睨みをきかせていた。
 泣く子も黙る内務省が廃止されたのは、昭和23年の芦田内閣からである。
 いま現在、国政に参与している政治家で内務官僚出身者といえば、後藤田正晴がそうであり、中曾根康弘は戦後の入省組である。

 第三代会長の名前には心覚えはないが、やはり、それなりの人物であったであろう。
 第四代には廣川弘禅がいる。『新潮日本人名辞典』によると以下の如しである。
 廣川弘禅 明治35-昭和42(1902-67)昭和期の政治家。福島県の曹洞宗の寺の生れ。本名は弘。駒澤大中退。東京市議・ 府議を経て、昭和15年衆議院議員(当選6回)。戦後、吉田茂側近の党人政治家として連頭。民自党幹事長や農相などを歴任。 28年佐藤栄作幹事長起用に反対し、吉田に背いたため、報復にあい落選、失勢。タヌキがあだ名。

 廣川弘禅は、第3次吉田内閣(’49、昭24・2・16)で農相、国務(行政管理庁長官)、 第4次同内閣(’52、昭27・10・30)でも農相を務めている。
 貌容もそうであったが、吉田茂の側近にあって有能な寝業師ぶりを発揮して、タヌキと
呼ばれるに相応しい人であった。
 昭和25年の夏、鹿児島の小松原海岸を埋め立てて工場団地を造成するという計画案が出されて、弘禅農林大臣が視察にやってきた。ついでに、 その海岸の砂浜に建つ、わが学校に立ち寄って演説をぶった。「ボーイズ・ビー・アンビシヤスとラ・サール博士は言った」と宣うたのには、 生徒一同どっと笑い、弘禅和尚立ち往生の段という一幕があった。ずっと後に三木武夫内閣に建設大臣で入閣した中馬辰猪代議士が「クラーク、 クラーク」と助け舟を出すが、暫し、何のことか分からない風であった。 弘禅和尚がPTA会長を努めたのは、31、32、 33年度の三年間である。落選後のことであるから票だのみの気持ちもあってのことだっただろうと、ちょっと痛ましい気もする。世田谷・ 目黒の両区を選挙区とする東京第3区は、党首や領紬クラスが覇を争う全国一の激戦区で、だれが落ちてもおかしくないといわれていた。
 第七代は廣川シズヱ。青葉学園(廃校)の理事長で、弘禅和尚の夫人。廣川夫妻に、多聞小の児童たる子女がいたかどうか。いま、 手元の資料だけでは分からない。’94/5/12

●生悦住浪子-95・8・14 癌性腹膜炎のため死去。90歳。 芹澤光治良の依頼で徳増須磨
夫氏(現・住友海上火災会長)の就職の斡旋をした。     (’95・8・15)追記

2007年12月29日

明治の時代

 人間の運命を読んでいると、明治時代の日本社会を垣間見ることが出来る。私達が、今ここで生きているには、 羽鳥先生が話されているように明治の立志の時代風潮が、『人間の運命』の森次郎にも影響を与えていたのだろう。

 『人間の運命』は時代の貧しさが書かれています。「東京の人」が、森次郎の漁村に来て、 ブラジルへの移住をアメリカへの移住と騙すところがあります。

 この事実関係は、芹沢先生が書かれています。

 中学生の時、故郷の漁村で、狩野川の渡しの先頭の家の二階に、「東京の人」という老夫婦が、二、三年暮らしていた。 何処へ行くにも夫婦一緒だと評判だった。この夫婦に騙されて、四軒の漁師がアメリカに移住した。

 村は貧しく、不景気なので、誰も移住を望んだが、費用がかかるので、四軒しか移住できなかった。四軒とも豊かな方で、 家と舟との所有者であったが、全部売り払って費用をつくった。その四軒を村中で羨望した。

 半年ばかりの後、その一軒の関係者から、アメリカへ出す返事の表紙に、英語でアドレスを書いてくれと、私は頼まれた。しかし、 差出人のアドレスはアメリカではなくて、ブラジルだった。ブラジルは南アメリカにあるが、アメリカ合衆国ではないことを説明したが、 相手は私の説明を信じなかった。

 翌日学校でチリの先生に話したところ、下校する時、学校の小さな地球儀を持ち帰って、よく説明してやれと注意を受けた。それ故、 帰宅するなり、その家を行って、地球儀を見せ、アメリカとブラジルのちがうことや、アメリカへの移住は幸福を予約されるが、ブラジルの方は、 日本の生活より苦しいことを、先生からから聞いたとおりに説明した。

 その夜、四軒の関係者がそろって私を訪ねて来た。                          (続く)

 

2007年12月30日

明治の時代2

『人間の運命』に出てくる様々な登場人物が事実とどういう関係にあるか、興味を持ってしまうのは、しかたがないことですね。 「東京の人」というのが、老夫婦だというのは、漁民の警戒心を解いてしまうのですね。

芹沢先生はさらにこう書かれています。

 私の説明に半信半疑で、すぐに船頭の家に行って、「東京の人」に会うからとて、私に同行を求めた。、「東京の人」は半月前ばかりに、 東京へ引き上げたあとだった。

 しかし、「東京の人」に騙され、「東京の人」をもうけさせて、四軒の移住者は犠牲者であることが、 その後の現地からの便りでわかった。その上、救済法もなく、帰国もできなくて、皆諦めて苦しい生活に堪えたようだー

 その後、村でもこの人々のことを忘れたようだが、私は何十年もたって、親しいものがブラジルで宗教活動をしているので、 四軒を調べてもらった。三軒の消息はわかったが、みな哀れで、故郷の人々に伝えられない。

 それにしても、あの「東京の人」は、今や地獄にでも陥(お)ちているのではなかろうか。

 

 明治に生まれた人達は、貧しさを逃れるため、志を持って困難に立ち向かっていきます。テレビなどでは、 うまく成功した例の報告がありますが、実際は、「東京の人」に騙されて酷いめにあった人がいることを忘れてはいけません。

 

2008年01月02日

謹賀新年

あけましておめでとうございます。

 本日の夜、爆笑問題という漫才グループがNHKの番組「爆笑問題の日本の教養」という番組に出演していました。 この番組の出演者は浅島誠 (発生生物学・東京大学)野矢茂樹 (哲学・東京大学)遠藤秀紀 (遺体解剖学・京都大学)佐藤勝彦 (宇宙物理学・東京大学)福岡伸一 (分子生物学・青山学院大学) 斉藤環 (精神医学・佐々木病院) 爆笑問題というそうそうたるメンバーです。

 この番組の最初の話題は『プロの生き様が消えた国ニッポン』でした。ここに出てきた主な発言は 「昔のプロは人間の生き様を教えてくれた。ところが今のプロはエレガントで優雅になってしまってる。職人的なプロがあり、 スター的なプロがある」という事が話しあわれていました。

 芹沢光治良の『人間の運命』は、まさしく人間の生き様を教えてくれました。主人公森次郎だけでなく、森次郎の生みの父親、母親、 ペール、ペールの養子、森次郎のお兄さん、植松家等、明治から昭和までの森次郎から見た様々な生き方を教えてくれました。この点では、 芹沢光治良はまさしくプロだと思う。

 それでは、芹沢光治良は、職人的なプロか、それともスター的なプロでしょうか?

 『ブルジョア』は、芹沢光治良のまさしくスター的なプロを表していますね。モンタージュの技法、あの1930年(昭和5年) に発表されましたが、その内容は、当時の日本社会にとっては、quite new の世界を提示したと思います。芹沢光治良は、 そのあと『我入道』という作品を発表しますが、これは職人的なプロを表す第一作ではないでしょうか。芹沢光治良は、 両方を兼ね添えているわけです。

 この話の中で、亀田というボクサーの話題になりました。亀田のマスコミでのあの非常識な態度について賛否が出ました。 あれだけえらい学者の中にもマスコミの報道だけで判断している学者がいて吃驚しました。それは亀田を肯定するという事です。

 亀田が大きなメディアのバックアップで、プロボクサーと違った破格な良い条件で実績を作らせてもらい、 世界タイトルマッチを掴んだ事実を亀田賛成派の学者は知らないのですね。亀田の記者会見の模様だけでなく、学者でしたら、 目の前の事実に着目しろと言いたいですね。彼は、本職はボクシングのプロで、記者会見のプロではありません。

 亀田支持派の学者さん達は、この事実を知って欲しいですね。

 それは2006年8月2日の亀田興毅、判定で世界ライトフライ級王座獲得をした試合は、 次の日の読売新聞では「信じられない判定だった。亀田が新王者となったが、試合内容は完敗だった。」 という見出しが出ています。

 この試合をおさらいすると

  1.  ボクシングは体重差があるほう、要するに重い人ほど有利だという前提があります。亀田は2階級も下の、 一度は引退を決意した元チャンピオンと試合をしました。しかも、この時はチャンピオンがいなくて、 空位を争う形でのタイトルマッチは亀田には願ってもない好条件。今の若者でいうと「おいしすぎでしょう。」 なんでこの様な試合が組めるのでしょうか?
  2.  しかもこの2人はライトフライ級では一度も戦ったことのないのになぜか、 同級の世界ランク一位と二位にいつの間にかなり暫定王座を争うというのは、あり得ないマッチメイク。 なんでこの様な試合が組めるのだろうか?
  3. 亀田長は1ラウンドからいきなりダウン。その後も打たれっぱなし。
  4. 終盤の3ランドはサンドバッグに変身したようにうたれっぱなし。
  5. でも判定は2- 1で亀田勝利。

   因果関係も相関関係もない判定だった。

 亀田に関しては、この様な経緯から、プロではないと思います。

 閑話休題

次に話題になったのは、「日本の若者に救いはあるか」です。

 斉藤環 (精神医学・佐々木病院)という方は、引きこもりの専門家で、推定100万人いるひきこりの人達は、 現実をしっかり見ているという指摘が印象的でした。要するに彼らは、 どんなに頑張っても勝ち組になれないという事を知っているということです(細かいニュアンスは違うかもしれません)。

 確かに昔はボクシングは、体という資本だけでボクシングの世界チャンピオンになるため、とても痛くてきついジムワークを己に課し、 日々努力してきたというイメージがありました。そこに夢があり、プロとしての生き様がわかりやすく見えてきました。しかし、 亀田の登場でそのチャンピオンになるためにも巨大資本と連ねて動かなければ(言うことを聞かなければ、 またはそのイメージにあうように己を捨てるというのが正確か)絶好のチャンピオンになる試合を組ませてもらえないということに、 彼らは気がついているのだろう。要するにボクシングでも勝ち組になれない、 世の中はそんなに甘いものではないことに気がついているということです。

 また、あれしなさい、こうしなさいでは駄目で、自然と見せるのが良いという発言がありました。そのためにも『人間の運命』 を読む環境が必要ですね。

管理人の思いこみの新年の挨拶でした。今年もよろしくお願いします。

2008年01月05日

立志の文学

 「近代文学に於ける芹沢光治良」という演題で芹沢光治良を立志の文学と位置づけた羽鳥先生の話しを聞いていて『人間の運命』 はその主要な芹沢作品と思われます。

 主人公の森次郎が高等文官試験を受ける事を書かれています。 貧窮の身から志を持って高等文官試験を受けるようになったのはある意味で立志の一つの表れですが(しかしここではおわらない)、 本人はこの辺の事情はどうはなしているのでしょうか?

 

 私(芹沢光治良)が東京帝大の三年生に進学した時、(大正10年春)在学中に高等文官試験や外交官試験を受験する同級生は、 みな10月まで欠席することにして、誘いあって、田舎で共同勉強する習慣だった。

 私も仲間に加わりたかったが、費用がかかりすぎるので、不可能だった。旧制一高時代からの親友Kも、私と同じ境遇だったので、 二人で、東京の下宿代ぐらいで、共同勉強を出来るところを、故郷で探そうと、沼津へ出かけたところ、列車で中学の5,6年先輩で、 顔見知りの近藤氏に会った。近藤氏はそれならわが家はどうかと、沼津駅からすぐに案内した。

 

 (続く)

2008年01月08日

立志の文学2

  東京帝大3年生(大正10年春)高等文官試験を受けるため、費用がかからない処を探しに故郷に帰った時に近藤氏と会った。 結局近藤氏のところで勉強するようになった。

 その場所は、御成橋を渡り、吉田から中学校を出る路にあり、その道にそって助木に囲まれた静かな家だった。当時近藤氏は、 婦人と二人暮らしで、事務室といわれる広い洋間が共同勉強室で、8畳の離れを寝室にしていた。食事は家族と同じもので、 好きなところに運ぶから、遠慮しないようにと、気のよさそうな夫人が念を押してくれたそうだ。

 費用がかからない処を探していた芹沢光治良氏とK(菊池勇夫)氏がためらいながら支払いがいくらか聞いたら、

「下宿代だって、そんなものはいらん!出世払いだって、ことにして、いつか、たくさんいただくか、なあ英子」「えー結構ですとも」と、 夫人も微笑した。

 沼津の近藤夫妻、夫人の名は、英子さんです。

 沼津での近藤夫妻と芹沢光治良氏、近藤勇夫氏は、ここで契約成立。二日後にはもう世話になっている。この行動の速さ! 早く共同勉強したかったのでしょう。進学したのは4月ですから、10月までの半年間、6ヶ月間高等文官試験の勉強合宿に入ったのでしょう。

 菊池氏は、帝大の法科で大学に残るつもりでの文官試験の勉強、芹沢氏は、経済部なので高等文官試験を受ける必要がなかったが、 こんな機会を利用して、法律体系を知ろうとした。

 二人ともよく勉強したが、10日に1度くらい、天気の良い日の午後2時間ぐらい歩いたそうだ。

 合宿といえば、運動部のそれを思い出します。プロ野球の選手達がサラリーマンが手にすることがない破格の高額な年収を得るのも、 高校、大学など青春の遊びたい盛りに目の見えないところでの強力な練習というより訓練といますか、 かなり過酷な環境に身を置いて切磋琢磨していたと思います。

 高等文官試験を受験して合格した多くの先輩方は、プロスポーツ選手並みの合宿や努力をしたのでしょう。そうすると、 スポーツ選手と同じくらいの年収を保証しても良いのではないかと管理人は思ってしまいます。

 特に、これからの日本社会を引っ張って牽引していく実務に関わる高級官僚といわれている人達は、 民意を反映出来る高度な判断力と実行性、その責任を追求できるシステムが出来上げれば、かなりな年収を保証した方がいいと思います。 優秀な頭脳、芸術、身体、才能も有ると思いますが、才能だけではないでしょう。

 この芹沢氏と菊池氏の田舎での共同勉強は、夏になり、沼津が暑くなると、 御殿場在増田の青竜寺にの離れを使用する事を近藤氏が頼んでくれました。

 こちらも出世払いだと呑気に話されたそうです。

 

2008年02月07日

人間の運命大河ドラマ化について みほ氏より

 1月29日(火)  。『人間の運命』の大河ドラマ化についてのみほ氏より投稿がありました。

 豊田さん、こんにちは。大河ドラマ化運動のことで気がついたことを書いてみます。
庶民が大河ドラマの主人公になったのは唯一、86年の三田佳子主演「いのち」(橋田壽賀子原作・脚本)だけで、 森次郎が採用されるとすると2番目になります。『いのち』では歴史上の人物が一人も出て来なかったようですが、その点「人間の運命」 は人物も事件も歴史満載、うまくアピールできるといいですね。放映の時期ですが、私は2012年1月?が良いと思いました。 ひとつはその年が「人間の運命」第1巻「父と子」出版から50年の節目であること(50年も読み継がれる長編小説ってすごい!)、 そして、都合のよいことに21世紀スペシャルドラマ「坂の上の雲」の最終回が2011年秋を予定されていて日露戦争のところで終わる。 「父と子」では沼津駅で出会ったロシア人捕虜の話しもでてくるので、時代がオーバーラップして観る方には流れがよいですね。 それにつけても脚本がミソですね。有名人に書いていただければよいですが、愛好会で「父と子」 の部分だけでもコンテストのようなものを催してひろく一般に募るのも面白いかも知れません。

 『いのち』は、終戦時に、母を病でなくし、 医者になる決意を決めた三田佳子演じる高原美希が色々な苦闘がありながら、医者の資格を取り、村の人々の為に尽くすという内容だと思います。

『人間の運命』の主人公森次郎は、明治、大正、昭和(敗戦と戦後)と大きな時代を生きてきました。貧しい中で、 志を高く持ち、勤勉で世に裨益する人になろうと様々な困難の中で作家になります。この三つの時代をどう見るか、 大河ドラマとしてしっかりと見通してみたいですね。

 みほ氏の放映時期の提案もなるほどだなあと思いました。小学生の時にロシア人に出逢い、 怖い気持ちで見ていた少年にとってそのロシア人が思いの外、優しく少年を取り扱った事は、外国の人を信用するきっかけを与えたのでしょう。 日露戦争で終わり、その時期から続くのは、おもしろいと思います。

 脚本は、『いのち』では橋田壽賀子氏でしたね。脚本家で、作品の持ち味は、 いろいろに変化させられてしまいます。私が知っている脚本は、『おしん』の橋田壽賀子、教育に力を込める『金八先生』で有名な小山内美江子、 『新撰組』の三谷幸喜ぐらいですが、日本脚本家連盟の会員は2000人以上います。説得力ある映画やドラマに出逢ったら、 その脚本家に注意していきたいと思います。

 

2009年05月28日

人間の運命は、14巻それとも16巻

24日の読書会では、名古屋の会員の方が、3人も来てくれました。遠方より来られると、何か嬉しいですね。

月例会で、管理人の私は、「人間の運命」の一四巻説と一六巻説という問題を提起しました。
         
 これは、私が勝手に考えているのですが、一四巻説の論者は、勝呂先生、一六巻説は、小串芹沢文学研究会代表。
 勝呂先生は、評伝「芹沢光治良」P267で、書かれていますし、多くの講演でも一四巻だと話されていますね。
 論拠は、 
 ①『人間の運命』は森次郎の人生を日本の近代史の中に、それこそ大河の流れに似た時 間の中に描き続けて来た。 一冊あたり少なくとも数年を扱った時間の流れが、『遠ざかった明日』では約三ケ月と極端に短く、それは大きな淀みを作っている。
 ②『人間の運命』では次郎のフランス留学を「結婚」と「孤独の道」両巻の間で、舞台が日本を離れるという理由で意図的に省いていたが、 『遠ざかった明日』 はその意図とも明らかに齟齬する。
 ③第六巻の「あとがき」は当初のそれに触れながら次のように書いている。
 その時、この大河小説を建築にたとえて、前三巻で一階を、後三巻で二階を建てようと、 計画した。一階というのは、 主人公たちが自意識をもってから、成人して結婚するまで 時代的には明治末年から大正の終り頃まで、年代を追って書くことであった。 二階とい うのは、成人した主人公たちを中心にして、一巻毎に、所期のテーマをとらえて書くこ とであった。しかし、 第一巻を書き上げてみて、建築の一階を完成するだけに、六巻を 要するだろうと思われた。
 簡単に言えば一階部分が予定の倍の全六巻に書かれ、二階部分が続巻の六巻に回されることになったのである。 この勇気ある賢明な判断が結果して、大河小説『人間の運命』 に芹沢の代表作と呼ぶに相応しい偉容を構えさせることになったのである。

 ところが、16巻説の小串説を説得づける、興味深いところがこのインタビュー出てきます。
 

 それは、今月の資料35ページ、上段でいきなり、小串さんが驚いているような感じて質問をしています。
  

  小串 では、最初から、第一部が六巷で、第二部が六巻で、第三部が六巻という計画ではなかったんですか? 
  芹沢 ええ、ええ。そんな気持ち全然出来なかった。                                        
 

  小串さんは、第六巻の「あとがき」を当然読んで知っているわけです。知っていて、芹沢先生の発言は、 吃驚したと     思います。私も吃驚しました。
 

 ただ、『遠ざかった明日』のあとがきで、「海に鳴る碑」を創作してから、「遠ざかった明日」は、 その裏門として意義があるのですから〉と合本加筆する考えを改めたことを記している。
 ということは、14巻にするという宣言だと思います。      
 

  だから、小串さんが人間の運命についてしつこく質問します。「海に鳴る碑」と「遠ざかった明日」の合本加筆するかどうか、 質問してると思います。

P36

小串 先生としましては、『人間の運命』をまだ書き続けるという気持ちはありませんか。
芹沢 ないですね。全然。蛇足を加える事になってはいけないしね。もっと違った主人公を選んで、 次の時代を書くと云   うなら分かるけれど、それは他の人がもうやるべき事だと思いますね。

小串 最終巻が講和条約の所で終っていますが、そぅいぅ時代背景の点においても、森次郎と云う主人公にとっては、 その条約のときあたりが、一つの区切りだ、という捕え方をなさっていらっしゃるのでしょうか。
芹沢 今度仮りにああいう社会小説、好きなものを事ことするなら、矢張り終戦というかしら、敗戦から現代に行く、日本の歩みだから、 そういうものを書いたら面白いでしょうね。実際に問題として、こんな風に生きていけるとは、終戦後誰も思っていない位の廃墟だし、恐いし、 こういうふうに現代まで来ている歩みを、誰かが小説に分かる様に書いたら面白いですけれど、言葉が変ると沢山の小説が出ている、と云うのは、 そういう歩みやら何やらをおたおた出しているのにすぎないんですよね。だけれど、あまり繁栄になった現在と、それから、ほんの僅か- 我々のように長く生きた者にとっては - 敗戦はほんの僅か前ですものね。
   とてつもなく何か不審な気がしますね。

 芹沢先生は、合本加筆にふれない。
 『人間の運命』は14巻説になるのだろうか。

  
 ところが、岡さんが、芹沢先生は晩年、先生自身人間の運命を読んで、父と子を書き直している。海になる碑は、 一巻に含まれているということをお話しされました。という事は、15巻?でしょうか。

 どうも『人間の運命』では、芹沢先生は、晩年いろいろ手入れをされているようです。その全容はわかりません。先生が手入れされた 『人間の運命』を読みたいと思います。

 

2009年06月04日

『人間の運命』を読む会  再開第6回(最終回)のご案内

 春から初夏にかけての今は1年中でいちばん快適な季節ですね。お元気でいらっしゃいますか?

 さて、当読書会は、いよいよ最終回を迎えることになりました。2002年の発足以来、7年と4ヶ月、 全76回を数えることが出来ましたのも、作品の大いなる魅力と共に、皆様方との出会い、そして語り合う喜びがあったからこそと思います。 心からの感謝を込めて、最終回のご案内をさせていただきます。

  日時 6月6日(土) 午後1時から4時

  会場 沼津市立図書館4階 第3講座室

  範囲 『海になる碑』16章~18章

  会費 200円

  『人間の運命を読む会』いよいよ最終回なんですね。時の速さを感じます。斉藤様お疲れ様でした。 すばらしい語りの場になると思います。最後、熱く語り合って下さい。

2010年01月15日

芹沢朝子様からの感動する本です。

sansou.JPG

 いつも送られてくる愛好会の封筒の様子が変わっていて、あれっと思っていたら、その封筒も大きくふくらんでいる。何かと思って開封したら、野沢朝子著「山荘」が入っておりました。

 早速、袋から取り出し、「はじめより」から読みました。
  
 この「山荘」は短歌が読まれたあと、野沢氏の文章が続く形です。

 病みてより こころ弱りて山荘に

  父の香のこる 机持ちてあり

 この短歌のあと、山荘の芹沢光治良先生の机に座っている野沢氏が語ります。それらの言葉は、モノローグのように山荘の扉を開けて、私達を「山荘」にいざなってくれます。

 文章の確かさから、読み進めて行くうちに気がつくことがありました。それはこの本から出てくる「優しさ」です。私は、どこかで感じたことがある「優しさ」です。この「優しさ」は何かと、仕事に行く途中、食事をしながら、音楽を聞いている時、この優しさってどこで出会ったのだろうと考え続けました。

 そしたら、それはいつも私が芹沢光治良作品を読んで感じていたのと同じものだったのです。

 その優しさとは、「芹沢光治良の目線」です。芹沢光治良先生の優しい目線が、芹沢作品の中に私達読者は感じています。主人公の時もあれば、ほんの脇役の時もあります。その目線が芹沢光治良氏の魅力だと思っています。

 私達に驕りを生まないように私に警告を出してくれたり、日々の生活の中で気をつけようと感じ入るのです。

 野沢氏の立場で書かれているのに父上の芹沢光治良氏の暖かい目線を特に感じるのは、この短歌で始まる所です。


 あたたかき父の手添ふる病床に

  もみぢ燃え立ち吾はめざむる

 この文章は「人間の運命」で、有名な(関係者の皆様、すいません)場面です。
先の戦争で東京が空襲になり、山荘に疎開した家族に起こる大きな事件です。戦争が終わってホッとしたのは、森次郎という家族だけではなく、読者もまさしくそうでした。それも束の間、戦争という大きなフレーズの頂点を次女の大きな病気という事で読者に大きな緊張をうみます。

 この事件を森次郎からではなく、その娘さんのお気持ちを私達読者が読むことが出来るというのは、読者として人間の運命を読み深める事につながります。また、一つの作品の「野沢朝子の目線」と言うのでしょうか?この時、娘さんはどういうふうに感じていたか、関心を持って読み進めて行きました。

 ところが、野沢氏の確たる文章を読み進めてみると芹沢光治良先生の目線を感じるのです。書いているのは、野沢氏ですけど、読み感じる私には、芹沢光治良氏の目線を暖かく感じるのです。

 
 この「山荘」では野沢氏の夫も登場します。お話したことがありますが、教養深いという言葉よりは、何でも知っていると表現していいのではないでしょうか?

 お医者様という科学者でありながら、漢字の素養や文学についてかなりのものを持って現代文学では、山荘で芹沢光治良先生といろいろお話をされたのではないかと思っています。
 
 野沢朝子氏が夫に書かれた文章は、暖かい目線に溢れています。まさしく芹沢光治良氏の優しさを体現されたと思います。

 すばらしい本です。感動を伴って読みました。「芹沢光治良の目線」を忘れない野沢朝子氏。感謝でいっぱいです。

 
 封筒によってイメージが変わるのですね。新しい封筒も歓迎です。ありがとうございました。

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