芹沢光治良文学愛好会
第353回
司会 小林茂樹氏
テキスト
「聖書物語」
14:15分から参加しました。「聖書物語」は、若い女性を対象として書かれたものですが、
作家芹沢光治良のキリスト観というものが読み取れるものです。阿倍光子氏による「芹沢光治良とキリスト教」というものがあります。
あわせて読むとより深く理解できるのではないでしょうか。
月例会についてお話を伺いながら、なるべく書き取ったものですが、当然各発表者を100%
忠実に再現は出来ません。この書き方は、何か工夫しようと考えています。
A:混沌とした世の中について書かれた時期に何かしらの問題意識があるのではないか。
特に若い女性向きでは。終戦後からキリスト教に興味を持って、共産党的な牧師さんに連れて行った協会に行ったことがある。
聖書はこの時期にいただいた。聖書をもらった人達は神様を信ずる立派な方だった。聖書については信ずる事は難しい。謎解きではないけれど、
何とかという機にこういう機会を持った。主人が病気療養の時、もろみの塔の本をいただいた。いい人であるし、
未だに関係が続いているのに聖書を読んで 理解しているわけではないけれど、旧約から始まる。
信仰がほど遠いものほど聖書を理解するのは、難しいのではないか。聖書は学びたいと思いながら、わからないままだった。宗教はわからない。
芹沢文学で出会ってここに救いを求めている。この 時代に先生がこういう事を書いていたのは発見だった。
司会:当時は旧約聖書が立法だった。印刷技術はないのにどうしたか。
12人の弟子が伝承を伝えるためでは。宗教は布教するところがあるのに、宗教はそういうところはないものだと思う。
何の批判もしないでこういうものがあったと受け入れるのは、どうか。「汝の敵を愛せよ」は芹沢先生の哲学がある。
B:ものみの塔の現物はこういうものである。仕事先に尋ねてくる。印刷物はきれいなものだ。
最近もらったのでいい話がある。お酒の話しである。「酒は呑んでまずいか」という問に対して。イエスの奇跡は、水を葡萄酒に変えたこと。
お酒を飲むことは、聖書は節度を守るということを言っている。聖書を手に取ったことはない。昭和21年に書いた時期が的確である。
出版社から見たら、喜んだのだろうか。若い婦人層から満足してくれたのだろうか。商業ベースでは載らないのだろうか。
我々芹沢ファンは貴重ではないか。ルルドの話しが出ていたが、沐浴は止めて、ワインを飲んでい た。石井さんはよかったと話していた。
C:その時代の出版社はどうだっか。私の年ぐらいだと、
女学校では普通通り割合戦争に対しては割合ソフトだった。それぐらいからの人達は、野沢さんぐらいの年を迎え、
学園生活がおろそかになっている。アメリカの文化と衝突した世代で、読み手が売れるという規準はないのではないだろうか。
司会:有名な画伯。井原宇三郎(すいません、よく聞き取れませんでした)がよく書いていた。
D:キリスト教が必修科目だった。関心は気持ちの中にあったのは事実だった。キリスト教が出来て、
人間はよかったのだろうか。キリスト教の弊害もいろいろあったのではないか。頭から否定が出来ないのが私の立場である。
キリスト教の紹介からコンパクトに纏められている。キリストが歩いた地図を見ながら読んだ。
犬飼美智子の学者達の考証したものをほとんど網羅していることがわかった。しかも先程話したとおり終戦後
(死の扉の前で途中で止めたと書いている)にしっかり先生が聖書を読んでおられたのはよくわかる。
ペンクラブでイスラエルに不時着した時はどんな思いだろうか。キリストの歩んだ道はわかっている。
30なっての二年半がキリストが歩いた期間。先生が本当に5巻まで書いた中は山上の垂訓、パン、それまではモーゼの十戒だったけど、
パリサイ人や学者によって雁字搦めにされている。当時の教えを展開させたのが山上の垂訓ではないだろうか。聖書は例え話が多い。
パンというものも当時の人達は現物を意味している。神の愛についてはいくら教えてもわからない。わかっていながら書いている。
司会:当時の立法者はひどいものだった。ベルダネッタという映画がある。
E:プロテスタントになったけど、本文を見る物が一番近道。見てみると人間を見ている。聖書は、
聖書記者のものの見方によって違う。敗戦後に日曜学校に行った。最後に献金があった。
なんだお金を取るのではないかというのが第一印象だった。星野とみひろさんがいた。弟と一緒だった。今奥様と一緒だった。日野原、
三浦綾子が来たりしている。生で見られた。教会で見ることが来たのは、聖書記者によって書かれたのは信じた。
P41で妊娠したことを手真似や筆談をした。私は手真似はどうやったのか興味を持った。ダビデの星があるが、
まとまりませんけどそんなことです。
F:感想はあったけどわかりにくい内容だった。キリストの生涯をあらすじのようにかいたもの。
中身わかってないけど読めないのではないかと思った。
G:季節向けのテーマを選んでいただいて関心を持つことが出来た。
旧約聖書は1000かかって作られている。新約聖書は150年かかる。ユダヤやイスラムはここら始まっている。世界の人工はすさまじい。
物語でも難しい。聖書は、汝の敵を愛せよなど名文句がでてくる。山上の垂訓など難しいものだ。意味の深い内容だと思う。物語としても面白い。
死者が蘇るなど物語としておもしろい。世界人口の半分くらいある。
だけどもやっぱり先生はどうしてこういうものを書いたかというと天理教というものに幼く体験したこと、
晩年はいろいろなアニミズムの世界を実際している。宗教 的な体験から聖書を読まれてわかりやすい物語にした。
宗教の問題となると信ずるか信じないかという事になる。学問的にも神学などがあるが世の中の力がない。
こういう物語は物語として美しい言葉として生活圏で捉えていく。世界の名著の中に光りあれとある。旧約聖書は詩である。
いろいろと勉強になった。クリスマスシーズンはこういう事で感激している。
H:去年の夏以来2回目。私自身は、カトリックの信者です。芹沢先生の作品は大好きである。
教祖様はキリスト教では、こうだとか、「聖書物語」があると知りビックリした。聖書そのままでビックリした。
わからないものはそのままで芹沢先生らしいと思った。注釈を読むと聖書研究していると思った。マリア様でも人間マリアと思い、
その描写には小説家としての腕を感じた。「直りたいか」が「直りたいと思うか」という言葉があったのではないか、
深く同情して奇跡は秘密をするようにというのが中山ミキを思い出す。P43下の段で、超越神とか超越者とつながっている、
そういう人の生き様が理解されている。そういうところがぐっと来た。なにかを読んだ時、
復活をしたキリストが欧州を駆け回っているのではないか。
司会:聖書の認識によって差がある。イエスを教えを説くというのは食べ物になっている。
不思議なことがそういうことがあると思った。
I:キリスト教には縁がないが、昭和22,3年頃、お祭りの時に「幸いなるかな貧しき者」
を看板を持ったアメリカ人を見た。体の大きな人が粗末な服を着て、黙って教会に行き、嫁にやられた。
30年後何か人生に疑問を持った時に宗教の経典をわかり言い内容だった。解説されると生きる指針になった。
やはり私にとって仏教が身近なもので遠藤周作の本を読んだ。見ても聖書物語は読むのが大変で目を通したということになっただけ。
「幸いなるかな貧しき者」の意味を知りたい。聖書物語を読んでみようと決意した。
J:聖書は観念的なものが多くてわかりにくい。
H:私もこの席から抜け出したいと思った。
I:聖書についてビックリしたのですが、小谷先生はローマに責任を感じないように聖書に書かれていた。
私もそう思っていたが、ローマの迫害がひどかったので、
マグナリアのマリアが嫁さんだったかとかローマに都合がよいように書かれたのではないか。 ドストエフスキーは三つの質問
「石をパンにしろ」「高いとことから落ちても大丈 夫」「悪魔を信ずれば世界をあげる」ローマ法王は悪魔を信じたのではないか。
奇跡には受け手の心がある。キリストは弟子に怒ってばかりいた。遠藤周作ではやさしい キリスト像だった。
初めて弟子たちは良心の呵責でもう一度キリストについて考える。 弟子達は変わって世界に飛び出したのではないか。パウロはユダヤ教、
キリスト教が 信じてくれない。異教徒を信仰させない、ユダは裏切りが定めではないか。同じ定め を受けたユダは、
ずっとかわいそうな位置にいる。聖書物語に先生らしさを感じた。悪霊の2000匹の豚について書かれている。
信念をまげてクラス姿を芹沢先生は見 た。悪霊が世界中を埋めている。ドストエフスキーについても書かれている。
社会を 混乱させて死に至らしめる。永遠のベストセラーになるのではないか。「ゆわんや悪人」謙虚な人だという意見があった、
霊的に貧しい人が霊的なものを求めている。心貧しきがどういう事がわかって勉強になりました。
J:イエスの奇跡はものすごくする。大勢の見ている前で起こす。教えを信じる。回りの群集は、
なぜイエスの教えがひろまないか。痛い思いをして心が変わっていく。痛い思いをしないと教えが広まらない。奇跡は必要がなかった。
教えをちゃんと導くような方法があったのではないか。
K:見るに見かねて直してあげた。奇跡を起こしたいから奇跡を起こしたのではないか。
L:自分の生まれた土地では奇跡を見せない。求めているのにしない。
自分の育ったところでは奇跡をしない。
M:生まれたところでは大工のイエスだけの存在ではないか。
N:信じさせるための奇跡をしなかった。
O:汝の信仰が汝を救った。イエスの故郷はイエスを信じなかったか。
S:聖書をよく知らない。神の言葉で聞いていたと思われる。
神ではなければ言えない言葉ではないかと思われる。
T:カトリックのシスター達とあう機会が多くてなじんでいる。父と子と精霊という実感がわかない。
U:父はこの時代切り抜いてまとめて取っていた。大切な文章として書かれていた。巴里では、
文化ではキリスト教の関わり、ヨーロッパに行く時は、聖書を持って行く。一つのカルチャーという認識である。注釈は父親のもの。
聖書という素晴らしさ。教え という者は関係ないにしても読者がいるよう。わからないところはわからないと素直に書く。
一人の聖書の読者の観点として書いたのではないか。共鳴するところは強調して書いた。神の子はキリスト。私達はみんな神の子ではないか。
V:6回目はなかった。
W:最初に会が始まって聖書物語の探求をした。時間がかかるし、もったいない。
国会図書館では資料が切られているところが多い。私も聖書物語を読みたいと調べて松江の古書店には目録にはあったけどなかった。
中野三中では一冊あった。はじめの5,6ページで挫折。読みやすいのがジュニア小説。人間というのは奇跡を見ないと信じないのか。
自分の持っている心みたいのを信ずるのがいいのではないか。実際に見ないでも信ずるというのはどういう事か。
どういう作品を乗り越えるか。奇跡はこれだと感じる。あまり平安な心で過ごせたのがいいのではないか。不思議に思っていない。
心持ちが一番大事ではないか。人生に何かあった時どう対処させたか、30歳までの人間キリストが書かれていない。
30歳までにどう過ごしたか知りたいと思った。挿絵を見ただけでも清く感じた事があればいいなと思った。
X:神の教えを広めることが一番だった。奇跡を見ても信じられない。
奇跡を見たとしてもイエスの跡をついていこうと思わない。言い世の中になっていない。
Y:奇跡が表れるのは大変なことだと思う。証明を持った奇跡は大変だと思う。
父親はベルナデットで夏を過ごした。自分 の体に奇跡を表すというのは大変なことだと。聖女になるという条件。
さてルルドの話しになると奇跡というには、科学的に検査している。生まれた奇跡が無くても神のはからいではないか、
和子さんが葡萄酒をなくしたが母親に対する態度か、聖霊の子だから。聖書物語は創作の中で生かしている。「死の扉の前」で哲学をしている。
Z:大切なものは目に見えない。命でも愛でもそうだ。見ない物を信ずるのは祝詞、コリント人への手紙、
お筆先を読んでいる。人間の理想的な信仰は目に見えないものを信ずることだと思う。
AA:奇跡を見なければ信じられない。信じやすいではないか。
布教は人間的に向上するのが布教するのが信仰。
BB:
女の運命 定かでないが今口智信 キリスト教は奇跡を起こしたのではなく同じ苦しみを伝えたもので。
イエス自身は自分の教えを広めようとしていた。信仰が浸透していった。奇跡が起こるのは布教するに当たっての手段ではないか。
その時点では教えを自ら広めようとしたのではないか。
CC:私は奇跡はあったのが本当だと思う。誰も神から見捨てられていない、
神から愛されているということだと思います。