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月例会 アーカイブ

2007年01月26日

1月例会

 

1月28日(日) 13:00-17:00で東中野地域センター 洋室:1~2 (1階)です。テキストは、文芸講演 「近代文学の宿命」 です。この「近代文学の宿命」が載っている雑誌が「東海人」です。この雑誌は戦後すぐ発行された地方の総合雑誌です。 1月例会の 参加費は500円です。

 勝呂さんの講演会で教えていただいたのですけど、 昭和23年11月2日での講演会の後のある事が「死者との対話」を書くきっかけになったそうです。 ある事とはその当時の静岡高校の高校生達が西田幾多郎のお弟子さんである島谷さんに詰め寄ったそうです。私は、 まだ勝呂氏の「死者との対話」論を目にしていませんが、マグノリアの講演ではそのように話されていました。 28日皆様の参加をお待ちしています。


 

 


 

 

 

2007年01月30日

一月例会 その一

第354回   一月月例会
文芸講演「近代文学の宿命」
東海人 編集発行人:東海人協会 吉見書店 昭和23年4月15日
その一

 一月月例会の報告を何回かにわけて報告します。各参加者が、 リラックスして話す芹沢光治良の作品に対する読後感です。各参加者が話された事を私が書き取ったもので私の考えが取捨選択の中に、 その要旨の中に入っています。正確な記録ではないことをここでお断りさせていただきます。

I:文学のとらえ方が、日本とフランスでは大きな違いがある。 フランスの生き方は自分の生き方を問う。日本の文学は、娯楽ではないか。芹沢光治良先生は、第一次世界大戦後、新しい秩序はギリシャ、デカルト、キリストに帰ると話されている。それは、相手の人格の中に神をみいだし、救われると書かれている。 人間の中に宿る神、60年立った現在には、神を指針としている作家は誰がいるだろうか? 私は大江健三郎、三浦綾子、遠藤周作、五木寛之だと思う。

J:経済を専攻された芹沢光治良の考え方。正直、皆さんの考えをもっと聞かせて欲しい。

K:この講演については、マグノリアの勝呂さんからの講演から幾つか説明します。
    「これ読み直しをしていって見たわけですけど、段々と時間を押してきているようですけど、さっき鈴木春雄さんとお話ししていましたら、来月「文学者の運命」というのを例会で取り上げるということでこれはあの、一月のようですが、静岡で戦後「東海人」という総合雑誌が出てきました。中央の雑誌で言えば、「文藝春秋」や「中央公論」にあたるそういう雑誌です。」
  詳細は、勝呂氏の「奏」の「死者との対話」に書かれていると思いますので、そちらをお読み下さい。ただ、その時の勝呂氏の話を簡単に纏めると
  東海人協会という協会が戦後静岡に出来た。この協会は静岡県文化協会役員で会長の大室貞一朗氏は静岡高校の校長で、芹沢先生と一高での同級生。これに関わったのが、当時の静岡大学だとか師範学校の先生たちが関わりを持った方たちである。 話しは ちょっと時間の事があるの 22年の11月2日でのこの講演会が、今も静岡にあります精華高等学校という学校との共催での講堂で講演会を持った。その時に一緒に公演された方が島谷さんは西田幾多郎のお弟子さんも講演した。その講演を終えた後、臨済寺という静岡ではせんげんさんという浅間神社という大きな神社がありますけれどその脇に臨済寺という禅宗のお寺があります。 その臨済寺に講演会の後、集まって座談会が執り行われたのです。で、その席で当日講演を聴きに来ていた当時の旧制の静岡大学生の学生達が島谷さん、西田幾多郎さんのお弟子さんに詰め寄ったわけなんですね。 えー自分たちは戦後の時代新しく出発して生きようとしていて何か指針となる教えが欲しい。そのことを芹沢さんは「死者との対話」の中で取り込んでいると話されています。
 この講演会後の座談会の様子があの名作「死者との対話」につながっていきます。

 続きは、後日書きます。

2007年01月31日

一月例会 その2

 その2は少し短いのですが、報告します。

 

K:先ほどのいきさつは、 先生の作品「黒目の天使」 で書かれています。 昭和の時代に私もノアの箱舟に襲われた事があった。それはバブルの崩壊だった。そのときに読んだ思い出深い作品だった。 この作品は、芹沢先生が自分自身に問いかけ、その答えを出して実証したのではないか。

 

L:神の存在ないし、 神を追究するして研究している。芹沢先生が自分自身に問いかけ、 その答えを出して実証したということはまったくそのとおりの事だと思う。神について書く作家は、「三浦綾子」ではないだろうか。

 

I:戦後、 日本はなぜ日本の伝統に帰らなかったのか。

M:日本国民は、 戦後アメリカの影響をを受ける。本当の神を忘れてしまった。私は洋服に関する仕事をしているが、洋服が乱れ、節が無くなり、けじめもなくなっている。西欧では神=キリストと捉えますが、日本ではいろいろな時に神を感じる。私の父は、朝どんな時でも、 朝5時にお参りに行っていた。父の歩く音が町の人々に朝を伝えていた。

 先生は、この原稿にヨーロッパの信仰の強さを書いているのではないか。日本の現状はこの信仰心の欠如にあるのではないか。折々の節度。 あまりにも無くなってきたと思う。

 

続く

 

 

2007年02月03日

一月例会 その3

文学者の運命

J: 今回の例会で一応に皆が目を留め、芹沢先生の創作への決意と感じられた箇所はP108.にある文章であった。

 私は人間のあらゆる罪過を自己のものとして、力およばずとも、創作したいと心がけた。 できあがった作品は拙くても、読む者が、それによって魂をゆさぶられ、生きる力を得ればいいのだと、独り考えている。

 これは「川端康成の死」について思索することによって導き出された、 芹沢先生の文学者としての姿勢だろうが、同時に、戦時下における文学者の生き方にも通じるものではないか。

 戦争への国民としての義務と、モラリストとしての個人との狭間で、 芹沢先生はどのような生き方を取ったのか。

決して永井荷風や宮本百合子のように帝国軍に抵抗はしなかったが、軍の宣撫工作を病気を理由に断った。 軍の要請を断ることは、相当の覚悟が必要だったが、それでも、上海や中支那の友人に顔向けできないことのほうを恐れたのだろう。しかし、 一国民として出来うる協力は惜しまなかった。防空演習や穴掘り、バケツリレーまで、病弱な体に鞭打って参加したのだ。

 このような信念を曲げない日ごろの生活態度は、精神力の賜物であり、しいては与えられた運命を生き抜き、 そのことによって読者にも、より良い人生を送りたいと思わせるメッセージに昇華させているのではないか。

 例会の中では、芹沢先生の書斎に集い、コーヒーの客になる文学者達についても話題になった。

 当時、コーヒーは大変高価な贅沢品で、しかも芹沢家はイギリスブランドのものを使用していたと言う。 伊藤整などコーヒーをご馳走になった作家たちは、美味かったとその風味を記憶している。

そして、コーヒー客として何度も芹沢家の書斎を訪れた作家達のその後の苦悩が書かれているが、 編集者になった者、出征したり結核になった者もいた。また、作品を発表しなくなった者も多く、 中には出版社を紹介してほしかったのだと言う者もいる。

 芹沢先生は、その人々に、何故文学がそんな容易なものではないことを、もっと語らなかったかと後悔した。

それはエクリバンという覚悟を持って作品に取り組んできた芹沢先生の文学者としての言葉だったろう。 芸術や文学へ臨む覚悟と、経験から知る壮絶な苦悩は誰一人手助けなど出来ない孤独な作業であることを先生は知っていた。だからこそ、 生命を大切に晩年まで自己を書き抜くことでしか、真のエクリバンには成りえないと書いている。

また、96歳まで書き続けられたのは、 やはり真のエクリバンであったからであろうと、この日、私たちは同意した。

 

2007年05月27日

2007年5月の愛好会

 本日は、月例会です。私の読後感をアップします。

 今月の愛好会のテキストは、 短編小説 「若葉」  (新女苑 昭和14年6月号 (第3巻・ 第6号) 実業之日本社)である。
 この小説の梗概は最も手短に書くと、「女学校四年生のくめ子の叔父玉雄は、戦争で失明したが、その運命を受け入れて、 東京の失明軍人寮に行く」である。
 この小説を読んで、興味深いものが二つあった。一つはこの失明軍人寮に入寮している人達が明るいという事だ。そこの部分を抜け出してみる。
   (P118 終わり2行 )
 「大木か、よく来たなあ。自分と同室がよかろうと思って、決めてあるぞ」と、玉雄の前に火鉢を運んだり、目の開いた人のやうに、 いろいろ世話をしてくれた。
 「ここへ移ってから、二つの目の代わりに、身体中が目になったように、勘がよくなった」
 さう鈴木伍長は元気に笑ひ、隣室の方へと、大きい声をかけて呼んだが、間もなく、同じような失明軍人が縁側を伝って愉快そうに笑った。 どの失明軍人も、屈託無いように、楽しそうに話していたが、玉雄も戦友のなかにはいったというように安心して、・・・

 もう一つは、玉雄が
 (P119 5行 )
 「自分も生まれ変わった気で、職業教育を受けるつもりで出てきた。出来たら、無線技師になって、もう一度、お国のためご奉公もし、 男一匹として、生きていく覚悟だ」 
  玉雄が積極的に手に職をつけていこうとする事だ。

 戦争で失明という不運を持ち、世に恨みを持って、ひねくれてもおかしくないのに、明るく、 前向きに生きていこうとする玉雄のその姿が特徴である。

 この4年後芹沢光治良は、週刊・夫人朝日(昭和18年4月28日号 朝日新聞社)で芹沢氏は、 軍事保護院属宅である福岡やすと対談をしている。題は「英霊を抱いて-靖国の妻を語る-」である。この小説の設定、 戦争の被害で失明したというものとは違うのですが、戦争で夫を失い残された妻、 靖国の妻達が自立するため教育を施す授産所という施設を訪問されて、そこの授産所長である福岡氏との対談です。
 この対談で芹沢氏は、
 そうですね。私がお訪ねした時も、遺族、特に若い女の方々が集まって、真剣にこれから何か腕に覚えてゆこうと言うんだから、 何か非常に暗い感じがしやしないかと思っていたところ、もう全く遺族という感じじゃございませんね。たいへん朗らかにしていらっしゃって、 その点は驚きました。

 戦争で大切な夫を失っても明るく生きているという事を強調されている。

 また、この授産所には一年間いて、主人を失った方へ職業教育を施します。芹沢先生はこの対談で、 一つ例を挙げると
 専門のもので自身を持たしてあげるという点で、職業を持つ事は、経済的にも嫁がいくらか稼ぐということで、 不満足な姑も我慢するということもありますね。
 職業教育の大切さを訴えています。
 
 芹沢先生の特徴である人生を肯定し、技術を持ち自立するという事が端的に表している作品です。

 この対談では、靖国の妻という人で健康を損ねている人がいて心配だとに芹沢先生は話されます。
 芹沢先生はこの事に対してあんまり靖国の妻という意識が強すぎて、頑張りすぎるんじゃないか、 責任感のために精神的に非常に無理をしているのではないかと問題を投げかけます。
 ところがここのところが福岡氏と意見が噛み合ってなく、読んでいる私は少し、福岡氏に対してイライラします。
 というのは、芹沢氏のこの指摘は、現代社会では、当たり前のことです。カウンセ【counselor】 臨床心理学などを修め、 個人の各種の悩みや心理的問題について相談に応じ、解決のための援助・助言をする専門家がよく用いる手段です
敗戦前の昭和18年という時代には、それこそ精神力の時代でした。この時代のなかで芹沢氏は、カウンセラー的な見方をされている。 対談の中でも「昼寝をしたいときでも昼寝をしちゃいけないということがきっとあるだろうと思うんです」 と優しい視点と共に忘れてはいけない視点を読者に教えてくれます。
 ところでこの小説の忘れてはいけない視点とは何でしょうか。
 夏目先生の存在です。P115の5行目です。
 一人の若い婦人が叔父に近づき、
 「大木先生」(注:失明した玉雄のこと)と声をかけた。
 すると叔父は全身を動揺させるようにして、両手をそちらへ出したが、その手も微かに震えていた、婦人はその震える手に、 小さく包んだものをに握らせて・・・
 とあります。
 玉雄氏は、明るく前向きに生きていますが、若い婦人夏目先生の存在を示して、現実の困難を思い起こします。
  玉雄は、失明軍人寮でこのつつみを開けてどう思った事だろう。やはり自分の運命を呪い涙した事だと思う。けれども玉雄は、 だからこそ職業教育を受け、技術を身につけ自律した生き方を求めていったと思う。
 芹沢光治良の小説は明るいだけでなく、現実を受け入れ、現実を踏まえて斜に構えるのでなく、現実を踏まえて明るく生きていくという事です。
 所謂文壇と言われる日本特有の私小説の手段を用いて、斜(はす)から物事の中心をとらえていく小説手法とはかなり異なっていて、 どうしても文壇に属する人からは受け入れられないことだと思う。
 

2007年06月23日

2007年6月の月例会

 6月の月例読書会は、「子供のための新偉人伝7.クールぺの伝記」です。(婦人之友 昭和12年7月号)
 「偉人というのは、偉い政治家や学者や又は軍人であるばかりでなく、自分の好きな適した仕事に生命をうちこんで、 それによって人類の幸福につくした人であるという良い例に、画家のクウルペも選ばれるのでしょう。」
  と書き始めます。
 芹沢光治良先生は、仕事は自分が好きなものをしなさいとよく書いています。芹沢光治良の考える仕事についての一つの視点です。
 私が、このテキストに私が注目するのは、好きな仕事によって「人類の幸福につくした人であるという良い例」とハッキリ明示して、 書き始めています。
  要するにこのテキストで芹沢光治良先生が考える「人類の幸福」について、読み取れるというわけです。
 最初の挿絵は、今ではクールベの代表作とされている、大作『オルナンの埋葬』です。ウキペディアフリー百科事典では、 「この作品発表当時の評判はさんざんであったそうです。この絵にクールベが付けた題名は『オルナンの埋葬に関する歴史画』というものでした。 当時のフランスの人々にとって「歴史画」とは、古代の神々、殉教者、英雄、帝王などを理想化された姿で描いた格調高い絵画のことであった。 これに対し、オルナンという、山奥の田舎町の葬式に集まった名もない人々という主題を、まるで歴史上の大事件のように扱い、 このような巨大な画面(縦約3.1メートル、横約6.6メートル)に表して「歴史画」 と称するのは当時としては常識はずれのことだったのです。」と書かれています。
 なぜ名もない人々を主題にしたのでしょうか?その答えを芹沢光治良氏は、このテキストのなかで、「『革帯の男』 はルーブルの博物館にありますが、これから約二十年間は、クウルペの一番幸せな時代であって-仕合わせというのは、 よい仕事ができたという意味ですが、この間に実に多くの傑作を人類に残しましたその頃よく故郷の寂しいオーナンの町に帰省して、 老いた両親をよろこばせましたが、又、少年の頃まだお父さんから絵を描くことを嫌われていた頃と同じように、 故郷の自然や貧しい人々を師として、自然や素朴な魂の告げる暗示を得てパリに帰りました。そして、 その暗示を帰ってから画布の上に生かそうと努力して、精進しました。クウールペの傑作中の傑作というのはみなこうして作られました。 あの有名な『石割り』も、あの素晴らしい『オーナンの埋葬』も『町の娘』も、クウルペは故郷の自然から素朴な心で教えられたのです」 と書いています。
 これは解説はいらないですね。クールぺは、絵の中心に故郷の自然や素朴な人々を持ってきたのです。このクールぺの描き方が、 フランスの社会でも英雄、帝王などでなく素朴な人々が中心になるという当然な進歩に一歩先を出ていたのではないでしょうか。 クールぺが評価されるのは当然だとわかります。
 テキスト216ページ「サロンの向かい側のモンターニュ通りにバラックを建てて、そこえ自分の絵四十枚とデッサン四枚を展覧して、 世人の批判を求めると同時に、堕落したサロンに反省を求めました。・・・自分の写実主義についての声明を発表しました。」と書かれています。
 これが世界初の個展といわれているそうです。 「ギュスターヴ・クールベ作品展。入場料1フラン」という看板を立て、 1855年6月28日から公開した。当時、画家が自分の作品だけを並べた「個展」を開催する習慣はなかったそうです。
クールぺの写実主義の声明とはこの目録に書かれた「レアリスム宣言」の事です。美術史上著名なものである「レアリスム宣言」において、 クールベは「自分は生きた芸術をつくりたいのだ」と言っている。彼の意図は、単なる古典絵画の模倣ではなく、今の時代の風景、人々、 現実を自分の感じたままに描くということであった。21世紀の今日から見れば当然のこのような考え方も、 19世紀の保守的な市民たちにとっては、驚くべき革新的なものであった。(ウキペディアフリー百科事典より)
 何となく「人類の幸福」が見えてきませんか。この百科事典の解説よりも前二十世紀初頭に芹沢光治良先生は「風景、人々、 現実を自分の感じたままに描いていたクールぺを「人類の幸福につくした」例にあげています。
 芹沢光治良と画家については、佐伯祐三、三岸節子との交流などがあります。 芹沢光治良と美術についてどなたか専門家的な視点で論文を書いてくれませんか?

2007年09月22日

今日の例会 「結婚のあとさき」

 本日は、午前中は東中野の喫茶店「ルーブル」で全国大会の打ち合わせ。12人集まりました。奥の部屋で、 管理人が作成した日程についてあれはこれはと話し合いました。その後は、月例会です。今日のテキストは「結婚のあとさき」です。

 それでは、この読後感を書きます。ここで書いたのが、芹沢文学愛好会の公式読後感(という言い方があるのかどうかわかりませんが・・ ・)ではありません。

 この小説に登場する父・母・娘三人各々は、非難されるところがあると思う。若い娘とその恋人は一見理想的な若夫婦に見えるが、 かんじんなところで、自分本位で大切なことをわかってないと腹立たしくなる。それは結婚式を挙げる時にまず大切なことは、 二人の都合ではなく親への感謝だと思うからだ。 今まで身を削って育ててくれた親へ感謝し礼をつくしその家を出る娘であることを卒業して新しい家庭に入るだけの節目に親への恩に感謝し気持ちよく家を出ることが一番大切なのに、 この二人は自分たちの都合ばかり優先して一人で大きくなったような顔をして親を無視して家を出てしまう。 もっと言葉をつくして理解してもらい、許してもらえるよう努力しないのは若さの傲慢だし、 立派で偉そうなことを言っても未熟で思いやりに欠いていると思う。

 そしてその妻を見ると、思いやりに欠けた人だ。でも甘えた根性や自分のことを棚に上げて夫を避難する態度等、 私自身の中にあるものだと思う。まるで自分の中にあるものを拡大して見せられたようで読後暗い気分になった。 とみ子は決して夫を愛してなかったわけではない。むしろ甘えていたのだ。 何を言っても叱らない夫に感情をぶつけては甘えてさからわないものだからますますエスカレートしていったのだろう。 甘えるけれど甘えさせない、思いやって欲しいけど思いやれないという人だった。私達はこのとみ子を反面教師として見ればいいのだが、 そもそもこのとみ子を作りだしたのはこの夫でないか。 正面からぶつかり合うのが面倒くさくて妻のヒステリーが頭の上を過ぎるのをじっと待っているという態度しかとらないのではこの結果もしかたがないかと思う。 ぶつかりあってたたかってお互い理解し、努力し、忍耐しあい、分かり合い、晩年を迎えるという姿が理想的なのだろうが、 その努力を始めから放棄していたら、一人で家を出ることも仕方がないし、和歌に逃げ込むものも仕方がないのだろう。 でもそんな根性で作る和歌に感動がアルトは思えないが。

 

 この作品は1960年6月19日に石井ふく子がプロデューサーで東芝日曜劇場で放送されました。
脚本は小松君郎、演出は小松達郎で出演は佐分利信、桜むつ子、河内桃子、穂積隆信、日塔智子、福田妙子です。

2007年11月19日

2007年11月例会

 最近よく聞く言葉にKYがあります。意味わかりますか?「空気を読めない」という意味です。「空気を読めない」者は、 浮かび上がってきますね。いじめの対象になってしまいます。学校の現場では、いじめの問題は大きな問題です。この量の多さは、 もしかしたら日本人の持つ文化というのか、少なくとも日本人固有のものの考え方にはKYというものがあると考えてしまいます。

 最近では、若者の個人主義の行き過ぎを耳にする日本であります。 KYという基準がまだまだある日本でかつ個人主義が確定されていない現代日本では、個人主義の行き過ぎを戻すとそのまま、 戦前の様子を呈するようになるのではないでしょうか?

 戦前のKYの世界では、KYがある意味極端にいったのではないか。後でふれる父親の発言に代表されるもの、戦場に立つ自分の若者に 「生きて帰ってくるな」という建前論を言わなくてはならない世界に戻るのではないか。

 もう一度、考えるとお父さんが、東京で有意義に生活出来るようになったのは、Not KY(空気を読める) だからと思います。 空気を読みながら有利な位置に着くと言うことではありません。KYの裏返しだと思います。自然と空気を読んでいたのですね。お父さんは。 その世相の流れにお母さんと共に Not KY の生き方をしていたと思います。周りの人も、Not KY ですから、 ある意味得意の絶頂になっている。お国のために」町の中で、「お国のために」防護団として有意義に動く。「わしは、 あれが戦死するように神様にお願いしているのだよ・・・」(P311 下の段)娘も深い父の愛がまだくめなかったと書かれている。

 こんな極端な事を言っている人がメルバのアベマリアを聴いて、本当の人間の本質をふと思い出させている。ちゃぶ台(P313) 「母は葡萄を盛ったお皿を前に、両手を膝に置いて」と書かれています。小さいちゃぶ台この姿が人間の本質を表している。「生きて帰って来い」 と言葉で話す事は、ありません。しかしその姿を願っている。

 KYですけど、あるテレビ曲が社員を募集していますが、その条件に「空気を読める」という言葉を出しているのはどういうことか? マスコミゆえに空気を読んで先に立ち働くのが必要なのだろうか。

 17日の記事では、CDについてふれました。私がその時に紹介したCDは、EMICLASSICS (LC06646)の Nellie Melba  Opera Arias And  Songs には、 Bach-Gounod のAve Mariaが入っています。W.H.Squre(Cello)の伴奏もついています。ところが、  Nellie Melba の Bach-Gounod のAve Mariaは、もう一つ録音があることがわかりました。これは、 ヴァイオリンが入ったもので、ヴァイオリンはラファエル・クーベリックのお父さんであるヤン・クーベリックであります。 先にヴァイオリンが一通り旋律を弾き終わってからメルバのソプラノが始まる。(Victrola 89073)  どちらの録音がその時聞かれたものか、わかりませんが、家族そろって再生される演奏を家族3人耳を傾け、涙を流す。美しいと思います。

2008年01月29日

太陽と自然、我入道

 テキスト「遺稿」
 2008年1月27日 司会 豊田

 芹沢光治良文学愛好会の一月の月例会が開かれた。今回は、管理人が司会でした。題材はなんと『遺稿』です。

 玲子さんの言葉から
 良い時に父はなくなった。かわいそうだったという気がする。いろいろなことが頭の中で右往左往した。太陽と自然、 我入道が一番印象に残っていたのではないだろうか。 太陽が照っている亡くなる直前、明日の天気予報だけは貴重な、 天気予報でテレビのそばにいくき、聴こうとする。太陽の存在の大きさがあった。起きて南側を開けて太陽を見る。長い習慣だった。 テラスで自分で干す。どこかにあったベッドから起きて、太陽を信じるものが大きかった。

 『遺稿』は「太陽と自然、我入道」先生が、実相の世界に行く直前に考えられたことが書かれています。 先生の生き方を象徴していますね。

  東京の愛好会では、芹沢先生のテープを20分ぐらい聴いてから、読書会に入ります。
 準備で右往左往していてあまり聴いてなかったのですが、
 テノールの端正な芹沢先生のお声で「・・・・月に一回マグロを持ってくる。そのマグロを醤油、ミリンをつけこんで・・・」と聞き、 芹沢先生はやはり、漁師の家に生まれ、漁師の町我入道で生まれ育ったのだと改めて思いました。遺作になぜ我入道が書かれたか、
芹沢先生にとって我入道はと考えている内に
 鈴木代表からこの一ヶ月の芹沢光治良に関わる話題についてのおはなしがありました。
 要約すると『人間の運命』大河ドラマ化は5年後先を目指していきたい。名古屋の新年会が1/13に開催されたが、東京からも池田さん、 内藤さん、も行かれた。名古屋の方からも協力すると申し出た。それに向かって運動をしたいと思っています。今年は、プロデユーサーに 『人間の運命』を送りたいと考えている。私の地元では、 15年ぐらい前からの運動で直江兼続の運動をしていて実現させたので来年再来年も続けてやりたい。
 今日のテキストはタイトルは無い。会報に入れましたけど、自由な読後感をいれてほしい。2月29日締め切りです。
 名古屋の新年会は59名の参加者で年々増加しており、朝の10時から夕方の5時まで開催されてしかも二次会も有りました。 名古屋の会は30周年。愛読者の会は34年になるそうです。
 傳田会長がなくられた。14日葬儀。愛好会から生花。愛好会の名前で香典を包みました。次の会長は副会長の杉山さんがなるそうです。
  休憩後、鈴木代表から途中から来られた方のために月例会の始まりで話された事と同じ話しをされました。『人苑の運命』 の大河ドラマ化についても、ドラマ化される事によって内容が変わるのではないかという危惧の意見も出されました。
 この意見は、芹沢作品の愛好家の私達には、極めて当たり前の事です。たとえが適切かどうかわかりませんが、ハリーポッターが映画化されて、 がっかりしたことはあります。しかし、大河ドラマですから、一年間という長さに渡って、明治、大正、 昭和という三つの時代を生きた森次郎の生き方は、脚本家の手によれば充分面白いものができるのではないかと考えます。
 催先生が韓国でエッセイを訳した。安井さんにお願いした。安藤さんが訳した。人間の運命のエッセイを出している。エッセイ集がある。 このエッセイ集の原本は、マグノリアに行けば見ることが出来ます。催先生は芹沢先生についていくつか書かれているようですので、 いつかHPでも紹介出来ればと思います。

 私は部活指導という特殊(?)な仕事で元気でやる気のある高校生とつきあっているので、休みがなかなかとれなく、 本日がやっと1月3日以来のお休みの日でした。この日の月例開会は、前々から楽しみにしていて、司会者にも立候補し、 入念な下調べをしたつもりで、今回の読書家に望みました。ゆとりを持った司会もわずか数分で総崩れになり、 会に参加された方の意見に一人感心してしまい、私一人心地よく司会も忘れ過ごしてしまいました。

 野沢さんの発言から
:お正月そうそうのテキストがなぜ遺稿なのか、もう10年以上たつのに遺稿を読むと辛い。力を振り絞って書いている。 書いているその姿を想像しないではいられない。書いている姿も力を振り絞って書いている。

 芹沢先生は最晩年の時、2階の書室に行くにも「富士山」に登るようにと書かれていました。書く時も、力をふりしぼって、 書いていたこの作品。長年の読者である私は、初めて未定稿という形で読めるのは幸せなことです。 書いているその時の芹沢先生の考えがストレートに書かれています。
 感謝する事の大切さ、自然の中にある沢山のいのち、そして我入道。
 今年の我入道の集いは、我入道を再発見したいですね。

 

2008年03月10日

芹沢光治良の『巴里よ・さよなら』と森鴎外の『舞姫』

 2月の例会は前日からの強風が東京を襲い、電車が遅れる、止まる等で読書会の開始時間には、8人ぐらいの集まりでした。京葉線 (東京デズニーランドに行くにはこの電車を使います)やこれと接続している武蔵野線(船橋から埼玉を通って東京まで)は、 悪天候になるとよく止まるのですが、常磐線が止まったのは、珍しく、参加できない人を多くしたのではないでしょうか。しかし、 休憩にはいるまでの2時間半はたっぷりと本当に「ダベル」会の雰囲気で丁々発止の意見の交換がありました。

 今回のテキスト『巴里よ・さよなら』は、その内容から主人公松村への好き嫌いがハッキリとわかれて、 それ故に意見交換に熱を帯びたのではないでしょうか?

 時間がたつとともに、遅刻で駆けつけた人も集まり、休憩後はいつもの人数になりました。

 そして休憩後に、この内容が森鴎外の『舞姫』に似ているという指摘が出てきました。ここで書いている管理人も高校一年生の時、 この題材を読んで衝撃を受けたのを覚えています。まだ純真可憐な高校一年生の私は、この『舞姫』 の主人公豊太郎のドイツでのエリスとの交情が私と同じくらい純真で優しくエリスとの愛を成就するため、 免職にされながらもエリスと生活してしました。

 このエリスと初めて出会う所の文章は美しいと思いました。引用しますね。

或る日の夕暮なりしが、余は獸苑を漫歩して、ウンテル、デン、リンデンを過ぎ、我がモンビシユウ街の僑居に歸らんと、 クロステル巷の古寺の前に來ぬ。余は彼の燈火の海を渡り來て、この狹く薄暗き巷に入り、樓上の木欄《おばしま》に干したる敷布、襦袢 《はだぎ》などまだ取入れぬ人家、頬髭長き猶太《ユダヤ》教徒の翁が戸前に佇みたる居酒屋、一つの梯《はしご》は直ちに樓《たかどの》 に達し、他の梯は窖《あなぐら》住まひの鍛冶が家に通じたる貸家などに向ひて、凹字の形に引籠みて立てられたる、 此三百年前の遺跡を望む毎に、心の恍惚となりて暫し佇みしこと幾度なるを知らず。
 今この處を過ぎんとするとき、鎖したる寺門の扉に倚りて、聲を呑みつゝ泣くひとりの少女あるを見たり。年は十六七なるべし。 被りし巾を洩れたる髮の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。我足音に驚かされてかへりみたる面、 余に詩人の筆なければこれを寫すべくもあらず。この青く清らにて物問ひたげに愁を含める目《まみ》の、 半ば露を宿せる長き睫毛に掩はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか。
 彼は料《はか》らぬ深き歎きに遭ひて、前後を顧みる遑なく、こゝに立ちて泣くにや。我が臆病なる心は憐憫の情に打ち勝たれて、 余は覺えず側に倚り、「何故に泣き玉ふか。ところに繋累なき外人《よそひと》は、却りて力を借し易きこともあらん。」といひ掛けたるが、 我ながらわが大膽なるに呆れたり。
 彼は驚きてわが黄なる面を打守りしが、我が眞率なる心や色に形《あら》はれたりけん。「君は善き人なりと見ゆ。彼の如く酷くはあらじ。 又た我母の如く。」暫し涸れたる涙の泉は又溢れて愛らしき頬を流れ落つ。

 古文体でも、情景描写は具体的に迫ってきますね。

 ところが、ここぞというところで、豊太郎はエリスを裏切り、復職して帰国します。 〈( `^′)〉エッ...

 これが、ショックだったことを覚えています。また、こういう内容を教科書に載せる高校という所はおもしろいと思いました。 ここに二つの作品の梗概を書きます。

 ところで、『巴里よ・さよなら』(初出:1933年(昭和8年)11カ月1日 現代)の梗概は、

 メーデーに3年ぶりにパリから帰国する武内教授は、帰国のためのトランクを買って部屋に戻った。 部屋には愛人のマルトが待っていたが、武内の愛を疑っていなかったマルトは武内に妻子があると知って激怒する。
 本作では部屋の窓の向こうにいる植木屋がアクセントになっている。植木屋が沢山の窓の中の出来事を見知っていて、 人生の達人のような位置で描かれているのがおもしろい。(HP芹沢光治良文学館より)

 森鴎外の『舞姫』(1890年(明治23)1月)の梗概は、

  某省の命令を受けてペルりンに留学した太田豊大郎は、自由な学問の精神に目覚めて、 偶然に知り合った踊り子エリスとの仲を疑った留学生仲間の告げ口がきっかけで官長より職を解かれてそのまま某新聞社の通信員として同地に在留することになり、 彼女と生活を共にするが、友人相沢の計らいで再げ官に仕える途を選ぶ結果になり、 そのために太田の人事不省中に発狂してしまったエリスを置いて帰国し、その経緯を悔恨をもって回想する。

  『巴里よ・さよなら』の竹内教授も、ベルリンに留学した太田林太郎も自由な西欧社会に「近代的自我」 に目覚め、おのおの女性に出会う。結局、二人とも女性を捨てて帰国する。それは意志的な選択や決意ではない。 家庭と国家や社会に奉仕する事を一念とした当時の青年が、近代精神に目覚め、恋愛の真の意義を悟り苦悶するか、または正当づけようとする。 結局この封建的な明治悲劇の根源は瞬時の衝動を制御できなかった性格の弱さではないか。

 『巴里よ・さよなら』では、

  マルトは武内に妻があるばかりか、もう十歳になる娘のあることも知らないらしい。 マルトが最初フランス語の教師として引合はされた時、友人から武内教授が未婚者だと云ひ聞かされて来た。 そして或る一日のフランス譜の会話に、
 

 -貴方は結婚してゐないのですか。
 -いゝえ。
 

 文法上えゝと答ふ可きところを、日本語式にいゝえと云つてしまつて、 その友人の偽りごとを裏書きすることになつた。
ー貴方ほ四十歳だと云ひますが、ニ十臺に見えますもの、結婚しなかつたことは賢明てすわ。
 武内教授は未婚者だとマルトが思ひ込んだことに気付いたが、どうせ会話の練習だからと思って、その事実の訂正を怠った。 しかしこの女数師と(云ふのが実は上等な街の女だつたが)お前、あんたと云ふ仲になつた時には、その事実を今更訂正して、 日本に妻がゐるとは云ひ得なかつた。それに二人の関係も巴里に在る間だけと、 経験家の友人がよくマルトに始めから約束してあると云ふのだから、不本意なことの偽りを、訂正するにも及ばないと思つてゐた。 しかし一つの偽りがあつたために、その後いくつかの偽りがそれに重なることになつた。
そして別れる時のマルトを思ふ真情にも、その嘘の影がさしてしまつた。それが武内教理の心を重くするー

  まさしく、性格の弱さを露呈していると思います。

  読み方は、個人それぞれ全く自由であります。主人公に自分を重ね合わせ、その状況下で、どのように考えるか、 さらに、作者が用意した主人公がどのような行動をとるか、 作者と考えを交換しながら読み進めていくことが出来るのがまさしく芹沢文学の魅力だと思います。また、 この主人公が自分とは全く異なる者として小説を読み進めていくことも出来るのです。

 『舞姫』は、

 我が隱しには二三「マルク」の銀貨あれど、それにて足るべくもあらねば、 余は時計をはづして机の上に置きぬ。「これにて一時の急を凌ぎ玉へ。 質屋の使のモンビシユウ街三番地にて太田と尋ね來ん折には價を取らすへきに。」
 少女は驚き感ぜしさま見えて、余が辭別《わかれ》のために出したる手を唇にあてたるが、はら/\と落つる熱き涙を我手の背《そびら》 に濺ぎつ。

  この文でも豊太郎が、国を代表して留学してきたエリートで国家に属するため、 エリサに優しく接することができる。

 家のために、立身出世する(個人ではないことに注意してください) 豊太郎にヨーロッパで経験した自由でふと芽生えてきた自我というのは、エリサのように強いものではなく、自由なものではない。 持って生まれた優しさで「近代的自我」を確立しようとしていた豊太郎は結局、確立するのに至らなかった。

 この、自分との立場の違いの読み方で私達は、何を知ったのでしょう。豊太郎、 竹内教授の人間の弱さを指摘するのは、簡単であります。

 ここで、森鴎外、芹沢光治良が提示しているものは、一体どういう事なのでしょうか?

 鴎外が、この『舞姫』で人間性の内面にはじめて小説の形で光をあてています。鴎外の文は、古文で書かれ、 漢字も難しくなかなかストレートに理解するのは、難しかった記憶がありますが、芹沢光治良のこの短篇では、 簡明な文体で内面に当てていた姿がわかりやすく提示されています。それは、人間が持つ理性がすべてを意識できないこと、 無意識な部分からの意思に揺り動かされる不自由な存在が人間であること。その結果、 人は功利的な生存競争の苦しみから逃れることが出来ないことを提示しています。ここのところに両者共通な部分があるのではないでしょうか。

 『神シリーズ』では、 主人公が苦しみや欲など生きる上での様々な束縛から解放される事を説いているを思い出します。芹沢光治良が文学で行ってきたことは、 芹沢自身が語っているように「文学は 物言わぬ 神の意思に 言葉を与えるものである」。

 『巴里よ・さよなら』で見せた人間の弱さ。これをどう克服するか、それを書き記したものが『神シリーズ』 ではないでしょうか。

 

2008年09月06日

愛好会8月テキスト「芹沢光治良研究 (鈴木吉維著)」の感想メモ  池田三省 

芹沢光治良の研究書を読んで、新しい発見と作品を整理することが出来た。
 
・芹沢文学のテーマ:平和、社会体制、信仰(宗教)、愛情、死、神をテーマとして、生活の中の題材を扱いながらも社会全体、世界全体の問題性と共通している社会性がる。

・神シリーズまでは、人間から様々な拘束の解放を望んで書かれた。

・神シリーズ後は、神をはっきりと認識して、確信を持って人類救済のために書かれた。   
 人間の一番の問題である「死」について、死は肉体の消滅であり、魂は不滅である。地獄は存在せず、現在の連続である。死は忌み嫌うものではなく希望や安息でもある。

・作品群から芹沢光治良の「神」意識の考察
 ・幼少年期:熱心な信仰生活のなかで神とともにあるような生活。
 ・青年期:神を否定し、近代人としての自我を確立。
 ・フランス留学:実証主義を標榜(公然と現す)し、唯物論的な思想であった。
  常に心の奥底では神と対峙していた。 
  聖書とキリスト教に近づき、中山みきの伝記を執筆。
教団を批判しながらも素朴な信仰について肯定的にとらえ、「神」と「教会   組織」を明確に分けて考えたことが分かる。 

 ・ある感想に、神シリーズ前は、「もの言わぬ神の意思」を書き続けていたが、その対象となる神は、沈黙であった。
神シリーズでは、神が現れ、神の「意思」を示してくれ神と共に書かれた。  芹沢光治良先生は、至福の中で書かれたのではないだろうか。
 
本書は、芹沢文学の代表作について丁寧に考察されています。
既存読者にとっては、各作品を再読したくなる書であり、芹沢文学に初めて触れる読者には、入門書として読まれることを希望します。

以上

2008年09月11日

愛好会8月テキスト「芹沢光治良研」の著者  鈴木吉維氏からコメントがありました。

 八月の例会テキスト「芹沢光治良研究 」の著者、鈴木吉維氏からコメントが届きました。

芹沢文学愛好会の皆様へ

ご無沙汰して申し訳ございません。
皆様お変わりなくお元気のこととお慶び申し上げます。
8月の例会では、拙著をテキストにお選びいただきまして、まことにありがとう
ございました。身に余る光栄と存じます。

本来でしたら当然参上して、皆様のご感想やご意見、ご質問、ご批判などをお伺
いし、お答えしなければなりませんでした。本当に申し訳ないことと思います。

芹沢文学は私にとって生きる根幹です。今後も勉強を続けてまいりますので、ど
うぞご指導くださいますよう、お願いいたします。
季節の変わり目です。皆様どうぞご自愛ください。

鈴木吉維

この研究書は、芹沢光治良の批評をするのに、すぐ断定的に結論を出すのではなく、その足で様々な資料と関わり、 2次資料から読み取るだけでなく、貴重な一次資料から作り出された研究書です。 この研究書が芹沢光治良研究の一つの方向性を見出したことだと思います。

  芹沢光治良の文学作品は、確実に読まれ続けていて、ここに読者がいるというのは、紛れもない事実であります。 その作品の魅力について、日曜日の午後、その作品について話が出来る芹沢光治良文学愛好会の読書会というのは、すばらしいものだと思います。 この月例会にわざわざ鈴木氏からおのようなコメントをもらえるとは、嬉しく思います。

 管理人は、仕事の都合で、日曜日をなかなか休むことができず、家族のものから報告を聞いています。月一回、 芹沢光治良の作品を読んで、その感想を語る月例会は大切なものですね。

  

 

2009年01月25日

月例会 2009年1月25日(日)

 

1月25日(日) 13:00-17:00
 会場) 東中野地域センター 洋室1・2  三越マンション
東京都中野区東中野4-25-5-101 TEL 03-3364-6677
 テキスト

短編小説「みれん」 『芹沢光治良文学館10』短編集 死者との対話 122-140頁
新潮社 平成9年4月10日

 

 

 本日は、月例会です。管理人の私も今日は、仕事もなく参加するつもりです。

今月のテキストは、「みれん」です。

なかなか素晴らしい短編小説です。戦後の不幸の中での、持岡先生の働きがこの小説に登場する夫婦にあるものを与えていると思います。 いろいろ教えられました。

 私の読後感よりは、この短編に出てくるメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲について考えて見たいと思います。

私達が音を聞くとき、物理的な音響を聞くだけでなく、そこに表れてくる具体的なものを浮かべる事があります。 抽象的なものと異なるものです。表象という言葉がよく似合うのではないでしょうか?表象とは、哲学・心理学で、 直観的に心に思い浮かべられる外的対象像をいう。

 芹沢光治良は、自分の作品の中では、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を平和を欲する時などに出演(?)させます。

 芹沢光治良は、平和というイメージとこの曲が重なっているのでしょう。 音楽を聞くことによって平和という表象が浮かんでくるんでしょう。

 音楽を受容するということは、物理的音響としてではなく、私達の心の中で、又は意識の中で何か別な物に変換させる作用があります。

 芹沢光治良は、氏自身の音楽を表象化された作品(メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲)を作品に出すことによって、 読者の理解を深める事に解決を与えています。

  メンデルスゾーン/ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64

 有名な、哀愁に満ちた第一主題は、印象的です。 先の芹沢光治良文学読書会の全国大会のコンサートで聞きました。生演奏で、芹沢光治良のお孫さんである野沢女史の第一主題を聞いていると、 平和のすばらしさを感じている自分に気づきました。

 芹沢光治良は、文学作品に音楽をたくさん入れていますが、詩に音楽作品をいれたのは、芹沢光治良と同年生まれの宮沢賢治です。

小岩井農場

  パート1より

 居る居る鳥がいつぱいにゐる
   なんといふ数だ 鳴く鳴く鳴く
   Rondo Capriccioso

  Rondo Capriccioso は、メンデルスゾーン作曲 ロンド・ カプリチョーソ ホ長調  op.14 を指している。

 詩には、音楽作品の表象化は、表現手段としてやりやすく、興味深いものが生まれますが、 小説という形態ではなかなか難しいと思います。

 宮沢賢治の童話で「セロ弾きのゴーシュ」があります。

 この小説の始まりで

 ひるすぎみんなは楽屋にまるくならんでこんどの町の音楽会へ出す第六交響曲の練習をしていました。
 トランペットはいっしょうけんめい歌っています。

  この第六交響曲というのは、賢治研究家の人の間では、ベートーベンの第六交響曲「田園」を指していると言われていますが、 引用した部分では、田園には、トランペットがいっしょうけんめい歌うところはありません。

  なぜ、ベートーベンの田園かというのはいろいろ理由をつけていますが、ここでは長くなるのでふれません。私は、 田園に限定するのは、疑問を持っています。少なくとも「田園」という曲を知っている宮沢賢治があえて第六交響曲としたのは、 もう少し考えて良いと思います。「田園」ということを作品名を出すことによって表象化されるのを避けたのではないでしょうか?

 それでは、今から月例会に行ってきます。

 

  

「セロ弾きのゴーシュ」という作品が

2009年04月26日

2009年4月26日(日) 月例会

k4toyoda2008-10-05 翰林書房 電話 03-3294-0588

 本日の芹沢光治良文学愛好会の読書会は、桜美林大学准教授勝呂奏(すぐる すすむ)氏の「評伝 芹沢光治良」 をテキストに取り上げます。

 小説に虚構性があることは、常識です。太宰治等についてそれは、論じられた感が、あります。しかし、読者としては、 作中人物が現実にどんな人物をモデルにしたか、現実の事件や政治がどのように、作中人物に影響を与えたかなど興味を持ってしまうのは、 しかたがないことです。

 作品と事実の虚構性の違いを読み取ることによって、作家芹沢光治良がその作品で考えていたことに気がつくこともあると思いますが、 作家の生き方について語り、その文学に描かれた精神を見せてくれるこの勝呂先生の著作は、 芹沢光治良の評論する一つの金字塔であると思います。

 作品の中にある事実関係を明らかにするという検証も大切なことですが、芹沢先生が幼児から亡くなるまでの間にどのように生きて、 どのような作品を書いたかという視点は、文学を読むものにとって大切なことだと改めて考えました。

 本日、13:00より 東中野地域センター 洋室1・2  三越マンション
 東京都中野区東中野4-25-5-101 で 例会が開催されます。

 どのような意見が出るか、楽しみです。

2009年11月03日

9月読書会の「パリよ、さようなら」の疑問について (池田三省)

2009/9月の読書会「パリよ、さようなら」(昭和30年9月発行)で、
疑問に思っていたことを解決してくれる作品を見つけました。

「読書会での疑問内容」 ・パリを離れるとき、ヨシ子との会話で・・(P34)。
  「こちらの人の第二次世界大戦の苦しみ方は日本人と違ったんだね。
  苦しみの次元が違ったんだな。  日本人は意識的にこちらの人の苦しみ を自分のものにしてかからなければ、これからの世界のなかで落伍する  よ。 日本の最近の政治や経済のあり方や日本人の心理状態などを、こっちで考えると、全く第一次世界大戦後みたいで、すでに落伍しかかっているようで、見てはいられないなあ」

「疑問点」・ヨーロッパ人の「第一次世界大戦の苦しみ」と「第二次世界大戦の苦しみ」
の違いが分らなかった。

「作品」
■昭和30年9月の「現代女性講座 1 幸福な生き方」 (角川書店)
  「幸福になるための愛と憎しみ」 と題して執筆されている。

「内容抜粋」
 (昭和30年の頃の日本を思い浮かべて読んでください。)

 ・文明の最も進んでいるといわれる西欧の人々が、一生の間に二度の世界戦争をどんなふうにしているか、二十数年の間にどれほど文明が進歩しているか、現地をみて判断したい。

1951年(昭和26年)に、世界ペンクラブ大会にため渡欧する際、PTA会長をしていた多聞小学校6年生の図画と作文をパリの小学校と交換をする。
 ・日本の小学生は、家庭、生活の不安を訴えていた。 しかし、フランスの小学生は一人も自分の生活や家庭生活を訴えるものはなかった。

  「フランスの校長の話」
  「・・・その日の暮しに困るとか、父が亡くなったら浮浪児になるような家庭は一軒もありません。 100年前にはあったかもしれません・・・
   今度の戦争後は、相互扶助の精神が制度化して、そのために勤労者は明日の心配がなくなって、人間らしい生活を楽しんでいます。・・・」

 ・フランスの子供手当の充実(子供一人:三千五百フラン(三千五百円))、イギリスの社会保障制度の確立など、一般の庶民は、大戦争があったにもかかわらず、幸せになっていた。これは四分の1世紀だけの文化の前進、進歩だとなっとくできて、人類の将来に絶望しないでもいいのだと、自分に言い聞かせた。

 ・人間の生活が保障されている国にあってこそ、人間の幸福は、各自が発見すべきだとか、人間の幸不幸は、その人の性格によって決定されるから、各自幸福をうつし出す心の鏡を持つように努力すべきだとか、言えるのではないだろうか?

 ・人間が生きる基本的条件について、語ることは、政治論になっても、幸福論にはならないかもしれない。 しかし、その基本的条件がそなわらない日本では、今日、いわゆる幸福論をすることは、道徳論をすることになったり、ややもすれば、不幸な庶民にあきらめを強いることになりはしなかろうか。
 
 ・政治論として、日本と同じ民主主義の国であるスイスやイギリス、フランスなどが、すでに人間の生きる基本条件が、よい政治によって、備わっているのに、何故日本ではそれが不可能であるか、考えるべきではないか?

 ・イギリス、フランス、スイス人も日本人とさして変わらない。 日本人も元来勤勉で、平和な人間である。
 ・スイスは、貧富の差が少なく、一般に富んで、生活が豊かであるばかりではなく、誰でも人間としての生活を保障されて、勤労の意欲さえあれば将来の心配のないように置かれていれば、人間は悪い事をしなくてすむし、自然に健全な生活をするようになるものであろう。
  
  ・これに反して、日本では、人間が荒野に放された動物のように、明日の安心のない状態におかれていれば、人間はいつか新聞の三面記事になるようなことを行い、自然に悪人も出て、社会生活が乱れるものであろう。
  ・日本の庶民は、政治の面から人間として扱われていないから、いきるために自力であせくせしなければならないから、不徳漢のように見えることが起きるにすぎない。
  ・個人が幸福になるためにも、その属する社会や国家が良くならなければならないという条件があると感ずる。 そして、幸福について考える場合、常に個人の精神の在り方や生き方が問題になって、この条件が忘れ去られる。
  ・私達は自分だけでが幸福になろうとしても、なれないような時代にいきていることを、知らなければならない。
  ・自分や家族だけが幸福になろうとするよりも、隣人とともに幸福になった方が、その幸福が確実で永続的であることを知らなければならない。

私達は社会生活において、長いベンチに多くの人とならんで掛けているいるようなものである。  そのベンチに安全に腰かけている間は、みな平和に暮らしていられて幸福である。しかし、いつそのベンチから落ちるかも知れないから、必死にしがみつくようにして掛けていようとする。
 自分だけがそのベンチにいつまでも掛けていようと努力するよりも、そのベンチが動揺しないように、ベンチが腐敗しないように、みんなで相談して、誰も落ちないように助け合うことの方が、もっと安全である。

・自分だけではなく、隣人とともに幸福になる方向に努力することは、言葉にかえれば「幸福になるための愛」と言うのではなかろうか。

・その現実を阻む者を憎む事が、「幸福になるための憎悪」であろう。

イギリスの社会保障制度、フランスやスイスで実行している福祉制度を実施している友人たちはこう答えた。

●自分達は第一次世界大戦では、「動物的な苦悩」をしたが、第二次世界大戦では「人間的な苦悩」をしたからだ。
 ・動物的な苦悩とは、家を焼かれた、夫や息子が戦死した、食料に窮し・・・
  というような苦悩だ。

 ・第二次世界大戦にも、そうした苦悩もしたが、その上に、なぜ自分達は戦争しなければならないか、同じように敵をも愛せよ説くキリスト教を信じながら、同じジェネレーションになぜ二度も戦争をしなければならないか、初めて自分達は疑問を抱いて、苦しんだ。「人間らしい苦悩だ」。   その苦悩の中で、人間がお互いに愛しあう以外に、自分達に平和も幸福もないと、みんなはっきりと知ったんだ。

 ・平和になると、その愛し合う精神をまず国民の間で生かそうとして、相互扶助の社会保障制度を設けたのだ。 国民の間でそれが出来なければ、他の国民と愛しあえることもできないし、世界平和など口にもできないという勢いだった。 もちろん財政上は困難だ。 しかし、戦争中、人を殺す戦争目的のためには財政困難などと、言ってはいられなかった。 まして、平和の目的のために、国民がみな愛しあうために、財政上困難ということはあり得ないし、あってはならないんだ・・。

私たちの幸福はともかく、子供や孫たちの幸福を思う時、私たちがそのためにやれることは、私達の社会を、同じ民主主義国のイギリスやスイスやフランスのように、人間らしい生活ができるような社会にすることではあるまいか。 そんな社会に急速にできなくとも、それに近づけるよう努力すべきではあるまいか。それは、政治に関係もあろうが、同時に、人間らしい愛の問題である、そして、私たちの社会を現状のままにとどめようとするあらゆるものに対して、憎悪を持って、たたかわなければならない。 それが、次ぐに来るものの幸福を保証する愛ではなかろうか。


読み終わって、芹沢光治良先生が、昭和30年の日本の庶民が幸せになるための道筋を力ずよく書かれています。 特にインパクトがあったのは、「戦争中、人を殺す戦争目的のためには財政困難などと、言ってはいられなかった。 まして、平和の目的のために、国民がみな愛しあうために、財政上困難ということはあり得ないし、あってはならないんだ」。

以上

2010年06月29日

2010年6月の月例会

 昨日は、月例会に行ってきました。芹沢光治良先生の「老年」を読みました。1941年5月「文学界」が初出です。
 
 管理人2による記録ですので、当然管理人2の主観が入りますが、ご容赦下さいませ。

 この小説は、女性が亡くなっています。芹沢作品では、珍しい設定です。30代に亡くなった奥さんの夫と義理の男の人だけの関係。奥さんは、一人娘でした。この二人の関係はお互い気遣う関係。素敵ですという女性会員の方の発言がありました。


 ところで、若い一人娘が亡くなった時に、当然夫にも責任があると考えるのが、その娘娘の親は思うでしょう。

 
 ところが、この夫、義理の父親は、「素敵な関係」なのです。

 これはなぜでしょうか?

 この二人の男性は、全く無意識にも、

 未来の子供達が健やかに育つ事がその根っこにあって、お互いの立場を考えながら暮らしているのではないでしょうかている。
 
 小説のいくつかのシーンで亡くなった妻や娘と対話している姿(私も身近な人の死に出会った後でこのような会話をするのではないだろうか。)は、自然でその内容は未来の子供達の幸せ。

 良い小説です。芹沢先生らしい小説です。

 さらに付け加えると言葉にしない優しさが随所にあるのではないか それが魅力

 もう一度書きますが、

 設定が珍しい。体つきから義理の父親 藍川清成をイメージしたのでは。ゴルフの道具がほしいという関係は、すばらしい。ゴルフを始める山辺は、短い作品なのに品格を与えている。小説の終わりの方で、義理の父親が涙ぐんだ気持ちは、男同士の好ましい感じではなかろうか?

 また、義理の父大野さんは肺炎、夫の山辺さんは、下血。

 病気を治していく日常が指し示すものが何か深いところがあるのを示しているのだろうか?
 病気を治せる家庭の平和、人々の幸せはいいものだということを主張しているのではないだろうか。

 参加された方のお話を伺って、この小説が改めて味わい深いものだと思いました。

 今日の夜、日本対パラグアイ戦があります。勝てば、初のベスト8になります。さっそく観戦します。 

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