9月26日(金)の朝日新聞朝刊に神谷光信氏の須賀敦子と9人のレリギオが修訂増刷されました。マグノリアの講演をまとめたものです。 遅くなり申し訳ありません。
それは、改めて私が申し上げるまでもありませんが、フランスに行ったときベルグソンを訪ねたときに、口のきけない、 娘さんのことを書いたところがありますけど、そういうふうなところとか、いろんな機会で彼は痛感して、特に戦後、 やっぱり日本の文壇のだめなところ、まあ、仲間内だけでやっていてはだめなんだと。 ちゃんとわかるような書き方でどんなすばらしい芸術であってもそれが理解されるような形であって、表現されていなければ、 意味がないんだという立場から、芹沢先生は、作品をたくさん書いていたんだということです。
これはこれで一つの信念だと思います。
と前回は、ここまで神谷氏のお話を書きました。ここからは、神谷氏のお話の要点を書きます。
神谷氏はここから、芹沢光治良氏と高田博厚氏の芸術感の違いについて述べていきます。
高田氏は、芸術に対して非常に厳しい考え方を持った人で、 日本に帰ってくるときにも作った作品をずいぶん壊して日本に帰ってきた話を聞きますし、大変厳しい仕事ぶりをしていらした方です。
一方芹沢先生は逆の立場から仕事をされた人です。
文学というものは、やっぱりその読まれなければ、ことに小説は読まれなければ仕方がないところで、 そういう点で芹沢先生の生き方というものは、正しかったと思います。
と話されます。
ここで、神谷氏は、片山俊彦氏の事を取り上げます。片山俊彦氏は、この本にも載っている人です。
片山俊彦という人も芹沢さんと似たようなところがあったと思います。二人の接点もあったわけですけど、片山先生も戦後、 たかしろ先生もそうですけど、電話がない時代に著書を通じて感動した人が突然尋ねてくると、 そして誰が来ても特に仕事など緊急のことがなければどうぞどうぞとあげて話をしたり、そういうことをしていた人です。
片山俊彦という人は、ただ自分も詩を書いた人ですが、後はフランスやドイツの翻訳が有名です。リルケとか、ロマンロランとか、後は、 エッセイをたくさん書いています。ただ、小説は書いてなくて、詩は書いていましたけど、詩人というか、 詩集を自費出版という形で何冊か出しましたけど、還暦のときに、はじめてちょっと集大成したみたいな詩集をみすず書房から出して、 わりと何というのでしょうか、アマチュア的な、詩壇、文壇があるように詩壇もあったわけですけど、そういうものとはちょっと距離を置いて、 お仕事をしていた方なんですね。そこが芹沢さんと違うところです。芹沢さんはジャーナリズムの中で本を書いて、 商業出版して読者に読んでもらおうとして、そういう関係を作った人です。片山さんは、そういう人ではなかった。 そのあたりの片山さんの生き方をやまむろしずかさんという方が批判しています。生きているときに
。片山さんが生きているときに。そういう批判をするということは立派な方だと僕は思いましたけど。どういう批判をしているかというと、 そういうアマチュアリズムというのは、ナルシシズムに陥ってしまうという危険性があるというのです。 技術的な作品としての彫琢みたいな完成させる。作品として完成させるというすごい努力を芸術家は、はらうわけですけど、そこはやっぱり、 曖昧なのでしょう。ナルシシズムに陥ってしまう恐れがあるのではないかということをその詩集が出たときに、その詩集がでたときに、 書評の中で手厳しく、そういうふうに。
山室さんという人は、片山さんとずーと親しかった人ですけど、そういう言い方をされています。私はそれを読んでハッとしたのですが、 確かにそういうところもあった。芹沢さんはそういうところはなかった人だと思います。やはり自分は作家であると、 原稿用紙に字を埋めていくということが、自分の天職であるということが、すごい覚悟を持って仕事をしていらっしゃる。そういう点では、 アマチュアではなくプロフェショナルであると、やっていた方です。
で、中村真一郎さんが、 日本の小説が西洋流のきちんとしたロマンみたいなものに育っていくためにはどうするかというと大衆小説的なものが質的に上昇していって、 そして立派な小説が出来るというのが彼の発想なんです。なにかこう読者と関係ないところで、 なんかこう芸術的なすばらしい作品を仲間うちで書いていてそういう作品になっていくのではなくて、 大衆的な読み物みたいなものがどんどん洗練されてすばらしいものになってすばらしい作品に多分なっていく、 そういう見通しを彼は持っていました。それは私は卓見だと思っていて、芹沢さんは、そういうことを考えていた人だと思います。 文壇なんかどうでもよくて、読者のためにわかるような、ちゃんと伝わるような作品を書く、一生懸命書く。そしてそれが、 芸術的な価値を持つ作品になっていくという考え方を芹沢さんはしている。それはその中村さんが言っているような事を意識的か無意識的か、 考えていらっしゃったということで、それはその小説家としてまっとうな考え方だったと思います。そうなると、 高田厚好さんの生き方とは違うけれども、でも芸術とか思想とかは少数者が担うもので、大衆と直結するものではない。というのは、 本当にそうなのか、違うような気がします。芹沢さんの考え方も間違ってないと思います。
芹沢先生はたくさんの作品を書かれて、特に、大変長命でございましたけれど、最後の10年間に神シリーズ、 人シリーズという大長編作品を書かれた。それで、その作品が出てから読者になられた方もおられるし、 それから以前からの読者で戸惑われた方もおられるし、非常に不思議な世界が最後に書かれることになりました。
そこも私は、大変興味深くて、私は今度の本ではカトリックという観点から書きましたので、 そういう観点から芹沢さんがお書きになったものを読むと、「私もカトリックになりたかったのです」とかね、いろいろな言葉が出てくる。 どういうことかよくわからないような、どうとらえていいのかわからないような、なんか、善の公案のような形で間単に答えが出せないような、 そういう言葉をいろいろもらしていらっしゃるというふうに私は思います。幼いときは、天理教のものが大きくあって、 それからヨーロッパに行って、向こうにはカトリックというものがあって、体を悪くしてサナトリウムに入ったときに、 シャルマンという友人が出来て、彼は、カトリックだけど、非常に独特なカトリックで、独特な神の観念を持っている人で、 非常に影響を受けるというふうなことがありました。という芹沢さんが最後の最晩年に開いて見せた世界というものが、 キリスト教の神でもないし、非常に不思議な世界であったと。そこはどういうことなんだと。そこには日本の風土、 精神風土みたいなものがおそらく深く関わっているということは予期されるのですが、そこがどういうことか、 私には見えていないところがあります。ただ、梶川さんとそこで話してみて、私うーんと思ったのは、カトリックというものが、 やはり自然というふうなものに対しては、プロテスタントなんかと比べると、カトリックというものは、ただまあ、 もちろん教理というものがありますけど、教理的なものよりももっと生活の中に毛細血管のように入り込んでいるというのもあって、 自然に対するような豊かな寛容性というか、包み込むようなものがありますし、そのへんのところになにか、 ヒントがあるのかなあという気がしているのですけど。ちょっと私にもよく見えていないところです。
高田博厚は、最後に日本に帰ってくるときに修道院に入るかどうか思うのですね。ドミニコ会かどこかの修道院で、 芸術的な創作をしてもいい修道院ですね。そこに入るかどうかも検討したけども、結局日本に帰ってくるのですね。
高田さんという人は、なんか日本の精神風土を憎んでいるところがあります。ヨーロッパにいると支えていられるような精神ですね、 日本の精神風土に来ると崩れてしまう、なにかそういう得体の知れないそういうものがあるかのようです。 そういう風なとらえかたをどうも彼はしていた気配があります。若い頃からの友人の片山俊彦が日本に帰ってきてた久しぶりに会うと、 お酒を飲むとちょっとなんか昔と違う。なんか変な風に酔ってしまうということが晩年あったみたいで、それがすごく悲しいんですね、 高田さんは。片山俊彦をこんな風にしたのは、なんなのかというと、日本の精神風土だという言い方をするのです。体質だ、みたいな。ただ、 高田さんは、芸術家なのでそれ以上の分析はしないというか出来ないというか、 日本の体質とか精神風土と言われてもちょっとわからないですよね。われわれはね。はたしてそうなのか、私にもわからないと。 高田さんに見えないところも多分あるのですね。
高田さんには見えないところが芹沢先生には見えていたのではないか。まあ、逆もあるかもしれませんけど。 芹沢先生についていろいろ考えるということは、その辺のヨーロッパとか日本とか、キリスト教とそうでない精神風土を考える上で、 すごく面白い事だと私は思います。そこはなんか、あまり簡単に何か知的に結論を出してしまうというのは、多分出来ない事だし、 やっても意味がないことだと思っておりますし、ちょっと宿題の場をね、なにかしばらく胸に持っていようと私は思っています。
昭和の精神史として芹沢光治良をその評論の対象とした神谷氏の見方は、この本に書かれている他のレリギオを読むとよく解ります。 神谷氏の評論の副題が「カトリシズムと昭和の精神史」になっており、「カトリシズムの昭和の精神史」では、ありません。増刷されているので、 多くの方が、この作品を通して芹沢光治良のあり方について考えるきっかけを与えていると思います。