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多聞小学校会長について(2)

 生悦住求馬は、昭和18年7月に、文部省科学局長から都の教育局長に移った。東京都知事・ 松村光麿は、陸軍中将・辰巳栄一(佐賀県生れ、M.28.1~S.63.2.17、佐賀
中学、陸士、陸大卒)が主張する学童疎開論に共鳴して、密かに教育局にその具体策を探らせることにした。辰巳は、 前後3回も駐英大使館什武官として過ごし、第2次大戦勃発後ドイツ空軍のロンドン大空襲を身をもって体験している。 太平洋戦争が勃発後交換船で帰国すると、東條英機(首相・陸相・参謀総長)によって東部軍参謀長に任命された。 辰巳は軍部内に学童疎開の必要性を説いてまわったが、東条は「日本が米英に勝つには日本古来の大和魂、国民精神を十分発揮するにある。 国民精神の基盤は日本の家族制度であって、死なばもろともという気概が必要だ。疎開などもってのほかだ」と、反対した。昭和18年9月には、 ラヂオを通じて「帝都を離れるものは非国民だ」と、演説したほどであった。
 数県の県知事を歴任した文部省の科学局長と東京都教育局長とでは、地位の重さが随分違うように思われるのだが、 生悦住を動かしたのは松村都知事の「戦火から子供の生命を守るためには学童疎開が必要」という信念であったようだ。
 生悦住求馬は、学童集団疎滞へ向けて秘策を練る。例えば郊外の公的施設を使い、希望者を募っての疎開生活の実験などもそうである。新聞に 「疎開先の児童は平穏な環境で、十分な食料に恵まれて楽しく勉強している」と書かせたりする。同時に集団疎開の受入れ先も東北、 信濃地方に着々と確保していた。そのうちに、戦況は日に日に悪化の一途をたどり、東条首相も疎開を認めざるを得なくなった。
 昭和19年3月3日、「ー般疎開促進要綱」が閣議決定。これを受けて東京都は「学童疎開奨励二関スル件」を発令した。これは保護者に対し、 縁故者を頼って児童の疎開を促すものであった。また、郊外の施設を使った事実上の集団疎開の実施なども通達した。
 都の児童数47万人のうち7万5千人が、4月1日現在で縁故疎開をしているが、短期間に16%もの児童が疎開したということは、 一般市民が学童疎開が実施されるのを待ちわびていたことを推測させるのに十分な数字である。
都は、ひきつづき再三にわたって政府に対し「集団疎開」を要望する。
 昭和19年6月、海軍がマリアナ沖海戦で壊滅的な打撃を被ると、東条内閣はついに「学童疎開促進要綱」を閣議決定した。と、同時に、 都が計画していた「集団疎開」に踏みきってもよい、という決定も下した。
東京都の「学童集団疎開」は、昭和19年8月4日に二盲人が上野駅を後にしたのを皮切りに、東北地方や信濃地方へと、約20万の学童 (3~6年生)が続々と親もとを離れていった(主要都市の集団疎開児童数は40万)。今年は、それから、五十年になる。

 「教育本来の仕事はあまりなく、ほとんどがこうした児童を護る仕事だった。親が戦災で死に、 疎開した子供だけ助かって戦災孤児も生じたが、次代を背負う子供が助かったのは良いことだった。 戦時施策で役に立ったのは学童疎開だけだったと後で誉められたが、
私としてはやはりこの仕事は快心(ママ)の事業だったし、よくやり抜いたと思った」と、生悦住求馬は著書の中で述べている。

 旧内務官僚に生悦住のような人がいたことは、驚きに値することであった。内務省といっても、 戦後育ちの人には分かり難いだろう。東条内閣を例にとると、総理、外務、内務、大蔵、陸軍、海軍、司法、文部、農林、商工(途中農林、 商工を廃止、農商、軍需両省を設置)、逓信、鉄道(途中両省を廃止、運輸通信省を設置)、拓務(途中廃止、大東亜省を設置)、厚生、国務 (企画院総裁)、書記官長で構成されていた。
 内務省は全国の知事・市長の座を一手に握り、警察機構を掌握し、今の建設省、労働省、自治省などが持っている諸々の権限を持ち、なおかつ、 例えば生悦住が文部省の社会教育局長や科学局長を歴任したように、あらゆる省庁に人員を配置して睨みをきかせていた。
 泣く子も黙る内務省が廃止されたのは、昭和23年の芦田内閣からである。
 いま現在、国政に参与している政治家で内務官僚出身者といえば、後藤田正晴がそうであり、中曾根康弘は戦後の入省組である。

 第三代会長の名前には心覚えはないが、やはり、それなりの人物であったであろう。
 第四代には廣川弘禅がいる。『新潮日本人名辞典』によると以下の如しである。
 廣川弘禅 明治35-昭和42(1902-67)昭和期の政治家。福島県の曹洞宗の寺の生れ。本名は弘。駒澤大中退。東京市議・ 府議を経て、昭和15年衆議院議員(当選6回)。戦後、吉田茂側近の党人政治家として連頭。民自党幹事長や農相などを歴任。 28年佐藤栄作幹事長起用に反対し、吉田に背いたため、報復にあい落選、失勢。タヌキがあだ名。

 廣川弘禅は、第3次吉田内閣(’49、昭24・2・16)で農相、国務(行政管理庁長官)、 第4次同内閣(’52、昭27・10・30)でも農相を務めている。
 貌容もそうであったが、吉田茂の側近にあって有能な寝業師ぶりを発揮して、タヌキと
呼ばれるに相応しい人であった。
 昭和25年の夏、鹿児島の小松原海岸を埋め立てて工場団地を造成するという計画案が出されて、弘禅農林大臣が視察にやってきた。ついでに、 その海岸の砂浜に建つ、わが学校に立ち寄って演説をぶった。「ボーイズ・ビー・アンビシヤスとラ・サール博士は言った」と宣うたのには、 生徒一同どっと笑い、弘禅和尚立ち往生の段という一幕があった。ずっと後に三木武夫内閣に建設大臣で入閣した中馬辰猪代議士が「クラーク、 クラーク」と助け舟を出すが、暫し、何のことか分からない風であった。 弘禅和尚がPTA会長を努めたのは、31、32、 33年度の三年間である。落選後のことであるから票だのみの気持ちもあってのことだっただろうと、ちょっと痛ましい気もする。世田谷・ 目黒の両区を選挙区とする東京第3区は、党首や領紬クラスが覇を争う全国一の激戦区で、だれが落ちてもおかしくないといわれていた。
 第七代は廣川シズヱ。青葉学園(廃校)の理事長で、弘禅和尚の夫人。廣川夫妻に、多聞小の児童たる子女がいたかどうか。いま、 手元の資料だけでは分からない。’94/5/12

●生悦住浪子-95・8・14 癌性腹膜炎のため死去。90歳。 芹澤光治良の依頼で徳増須磨
夫氏(現・住友海上火災会長)の就職の斡旋をした。     (’95・8・15)追記

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2007年05月02日 05:58に投稿されたエントリーのページです。

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