「芹沢先生に導かれてサロン・マグノリアへ」 という題の講演です。死期が迫った90歳の高齢の女性のところに鈴木氏が向かいました。あきらかに間もなく死を迎えそうな、その女性に 「何かしてもらいたい事がありますか?」と尋ねると、「芹沢先生のお宅に行ってほしい」と頼まれました。 芹沢先生の自宅で鈴木氏が頼まれた内容は、マグノリアの木に導かれるということでした。その内容は「死期が迫っている患者さんは、 端から見て理不尽な事でも患者さん自身にとっては事実」ということでした。 芹沢先生の自宅のマグノリアからその女性の所に早朝まっすぐ訪ね、その方は、一年以上明るく幸せに命を全うしたそうです。
私は、このお話を伺って、文学の人に与える影響に改めて感じ入りました。 文学の力はほんとに大きいですね。ところで1994年「少年の夢」- 梅原猛対談集の中で宗教性を排除した日本の文学という題で瀬戸内寂聴と対談しています。
瀬戸内:この間亡くなった芹沢光治良さん、 あの人はちゃんと宗教があったでしょう。でも、ああいう人はやっぱり傍流で、何か違うのね。
という発言があります。傍流だと違うということは、 主流は違わないという事ですよね。その規準はいったいなんでしょうか?「何か違う」という言い方は、 本質から外れている事を指す場合に使われます。芹沢文学は文学から外れているのでしょうか。私が芹沢文学ファンとしては、「傍流」 と書かれたからアレッと思っているわけではありません。瀬戸内寂聴が「傍流」と使ったのは、この対談の始めに梅原先生が 「日本の文学の主流派は、やっぱり無宗教」という発言がありますので、それを受けた形で敢えて使ったのでしょう。しかし、 文学として何が違うのでしょうか?
鈴木氏のお話を伺うと死を目前にしても芹沢光治良を思い出すというのはどういう事でしょうか。 芹沢文学の力の大きさではないでしょうか?
国際文学療法学会について鈴木氏からお話を伺いました。 文学のいろいろな場面について読み手がどういう場面を想像し、どう解決するかなどを通して、人生の意味を探り、 自己成長の手がかりを得ていくものだそうです。