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2006年12月 アーカイブ

2006年12月02日

11月 月例会

文学者の運命

 今回の例会で一応に皆が目を留め、芹沢先生の創作への決意と感じられた箇所はP108.にある文章であった。

 私は人間のあらゆる罪過を自己のものとして、力およばずとも、創作したいと心がけた。 できあがった作品は拙くても、読む者が、それによって魂をゆさぶられ、生きる力を得ればいいのだと、独り考えている。

 これは「川端康成の死」について思索することによって導き出された、 芹沢先生の文学者としての姿勢だろうが、同時に、戦時下における文学者の生き方にも通じるものではないか。

 戦争への国民としての義務と、モラリストとしての個人との狭間で、 芹沢先生はどのような生き方を取ったのか。

決して永井荷風や宮本百合子のように帝国軍に抵抗はしなかったが、軍の宣撫工作を病気を理由に断った。 軍の要請を断ることは、相当の覚悟が必要だったが、それでも、上海や中支那の友人に顔向けできないことのほうを恐れたのだろう。しかし、 一国民として出来うる協力は惜しまなかった。防空演習や穴掘り、バケツリレーまで、病弱な体に鞭打って参加したのだ。

 このような信念を曲げない日ごろの生活態度は、精神力の賜物であり、しいては与えられた運命を生き抜き、 そのことによって読者にも、より良い人生を送りたいと思わせるメッセージに昇華させているのではないか。

 例会の中では、芹沢先生の書斎に集い、コーヒーの客になる文学者達についても話題になった。

 当時、コーヒーは大変高価な贅沢品で、しかも芹沢家はイギリスブランドのものを使用していたと言う。 伊藤整などコーヒーをご馳走になった作家たちは、美味かったとその風味を記憶している。

そして、コーヒー客として何度も芹沢家の書斎を訪れた作家達のその後の苦悩が書かれているが、 編集者になった者、出征したり結核になった者もいた。また、作品を発表しなくなった者も多く、 中には出版社を紹介してほしかったのだと言う者もいる。

 芹沢先生は、その人々に、何故文学がそんな容易なものではないことを、もっと語らなかったかと後悔した。

それはエクリバンという覚悟を持って作品に取り組んできた芹沢先生の文学者としての言葉だったろう。 芸術や文学へ臨む覚悟と、経験から知る壮絶な苦悩は誰一人手助けなど出来ない孤独な作業であることを先生は知っていた。だからこそ、 生命を大切に晩年まで自己を書き抜くことでしか、真のエクリバンには成りえないと書いている。

また、96歳まで書き続けられたのは、 やはり真のエクリバンであったからであろうと、この日、私たちは同意した。

 

2006年12月10日

勝呂 奏(すすむ)氏の講演会

 評伝「芹沢光治良」の話しを聞いてきました。

評伝「芹沢光治良」は、 私が芹沢光治良に持っている様々なイメージが漠然としているものはハッキリと自覚でき、 自分なりに持っていたイメージを説得力を持って確信されました。確信された事の一つに芹沢光治良氏の生誕年についてであります。 芹沢光治良氏の生年月日については、しばらく明治30年説が続いていました。新潮日本文学事典および日本人名辞典、 三省堂日本人名辞典などでは明治30年となっています。
それは「芹沢生前の年譜のほとんどがそれも本人の校閲した『芹沢文学・資料』(芹沢文学研究会編昭和53・11) 所収のもの等も含めて明治三十年としていて、生年月日については混乱が見られます」(評伝 芹沢光治良 より) 

 明治29年誕生説と30年誕生説では、芹沢光治良文学愛好家の私にとっては、 意味合いが大きく違ってきます。明治29年だと宮沢賢治と同年生まれになります。一高の同窓会名簿を見ますと、「阿倍 孝」 という名前が見られますが、彼は宮沢賢治の親友であったようです。彼を通して一高、 帝大の中で偶然芹沢氏と行き会っていることがあるかもしれません。賢治の盛岡中学の同級には、金田一京助の4番目の弟がいます。彼も一高、 東大に進学しています。玲子氏が小学生の時、軽井沢で夏休みの宿題で「セロ弾きのゴーシュ」 を芹沢先生から説明してもらったと話されていました。同年の作家だと芹沢氏が認識していたら、 芹沢光治良による賢治論など聞くことが出来たかもしれません。 少なくとも芹沢光治良と宮沢賢治は文学的には近いところにはないかもしれませんが(宗教的にはある関連性が見つけられるかもしれません)、 同年生まれというところや一高、東大があった本郷というところでは近いところにいました。 もしかしたら本郷中央協会でパイプオルガンの演奏を偶然聞いていたかもしれません・・・。 芹沢氏が宮沢賢治の童話についてはある認識があったようですが、「春と修羅」に対してどういう感想を持っていたか知りたくもあります。

 話しを戻して勝呂氏の評伝「芹沢光治良」によってはっきりと明治29年説に決定させられのです。


 「私の青春時代」で芹沢は「戸籍は二十九年になっているが、 出生当時父が村の有力者は一年でも早く男の子を小学校に上げたいために戸籍係に二十九年にさせたということだと注記したことがあります。 けれども芹沢の父常蔵のそうした配慮通りになていない年譜的事実があります。 尋常小学校入学の学齢からすれば満七歳になる明治三十六年四月に入学するはずがいずれの年譜も楊原尋常小学校への入学は一年遅れの翌年であります。 つまりは明治三十年生まれであれば合っているのであります。
 この疑問を解明するには在学中の学籍簿を見るよりなかろうがそれは知られていません。 恐らくは従来の年譜の生年を戸籍通りに改めた時に起こた錯誤だろうと思います。
 明治29年生まれ説の年譜的事実は芹沢は母校の創立百周年記念誌に寄せたエッセイで楊原小学校で高等科二年になる時義務教育年限が四年から六年になた思い出を綴たことがあります。 義務教育年限の延長は明治四十年三月の小学校令改正に伴うもので翌年四月から施行になり芹沢の記憶することとそれは一致します。 また芹沢光治良生誕百年記念展に展示された資料に明治四十二年三月の楊原尋常小学校卒業記念帳がありそれに芹沢光治良の名前が見えます。 (評伝 「芹沢光治良」より)
 長く引用させていただきました。

 作家論の前提になる生年月日が昭和53年頃ハッキリしていれば、いろいろ興味深い事実がわかったかもしれません。

 勝呂氏の講演会についてその様子を簡単に報告します。

勝呂氏は、「芹沢文学の持っている暖かな魅力は、若輩の私には生ぬるい感覚があったが、 ある程度の年齢に芹沢文学の魅力に気がついた」「芹沢文学の研究は漱石や芥川と較べても十分な基礎研究がされていないのが実情である。 作品に関わる周辺的な資料になると目録がないという実態である」中で無謀なことを始めるという思いを持っていたが、一方、 誰かがやらなくてはいけないという気持ちを持っていた。ここから出発した評伝「芹沢光治良」は5年かかり、 原稿用紙774枚かかったそうです。

 とにかく評伝を書くにあたって、資料の収集に様々な機関を利用しました。各機関の長所、 短所をよく認識され、上手に利用されています。静岡中央図書館、神奈川県立近代文学館、国会図書館、 全国に散らばっている教え子の大学の図書館も「君にいる大学の図書館にはこういう文献があると請求番号を調べてお願いする」東京大学、 明治大学、上智大学等を利用したそうです。勝呂さんの言葉を借りると「今この文献がなくて書けないと困り果てている時に、 誰かしら文献を手に入れるのに都合の良い場所にいる教え子の顔、知人の顔が浮かぶのです。 早速そこに連絡してお願いするとそうすると一週間とかからずに僕の所に資料が届く。そうすると仕事を滞らせることなくほぼ、 毎日原稿を書いていたとなると嘘になりますけど、それでも一週間に10枚ぐらい書こうと思えば書けました」 「そのさいに一番助けられたのは何であるかというと、鈴木春雄さんを中心とした芹沢文学愛好会で作成している『芹沢光治良書誌作成資料』 が役に立ちました」

 勝呂氏が評伝を書くに当たって、研究者としての基本的姿勢を明らかにしました。

 「石丸人物を調べる時、芹沢先生のエッセイを頼りにして、小説を頼りにするのではなく、 エッセイを頼りにしても結局芹沢先生ご自身がお書きになったことを信じるだけしかない。傍証が何もないということになってしまいます。 それでは研究者を名乗るのは恥ずかしくて出来ない、それをどうやって埋めていくかということが評伝を書くに当たって要になるところです」

 次回に続きを書きます。

2006年12月13日

茶室住の茶室は?

勝呂氏の講演について、石丸氏のところでお話が終わりました。これを書き終わったところで、

千葉にある翠州亭(千葉県長生郡長柄町上野521-4 http://www.seimei-no-mori.com/suisu.html ) に行ってきました。この建物は芹沢先生の短編『茶室住』や『去来』に出てくる「中尾男爵邸」であります。「中尾男爵邸」は、 1885年日本郵船の成立とともに入社、 95年三代社長として同社を世界最大級の海運企業に成長させた近藤廉平氏の跡継ぎで近藤滋弥男爵の別邸として東京麻布広尾町に建てられ、 戦後の45年から78年までスイス大使館として使用され、この地に引っ越してきました。芹沢氏のご家族は、 戦後一時期男爵邸の茶室に住んでいらっしゃいましたが、その茶室を見たいと思い、来ましたが、残念ながら、茶室だけは見あたりませんでした。 しかし芹沢氏のご家族が目にした男爵邸はしっかり残っていました。現在はレストランとして使用されています。日曜日に行きましたが、 予約で満員でした。たまたま予約していましたので紅葉に囲まれて、おいしくいただいてきました。

 写真は、正面玄関から写しました。下の写真は、生活感ある、玄関右脇の所です。作品の中で、 お風呂をもらいに行くところがありますが、そのお風呂場は残っているそうです。しかし、「茶室」は何処に行ったのでしょうか?

 勝呂先生の講演の続きは次回に書きます。

2006年12月26日

第353回 月例会報告 主観的なものです。

芹沢光治良文学愛好会
第353回
司会 小林茂樹氏
テキスト
「聖書物語」
                                                        

 14:15分から参加しました。「聖書物語」は、若い女性を対象として書かれたものですが、 作家芹沢光治良のキリスト観というものが読み取れるものです。阿倍光子氏による「芹沢光治良とキリスト教」というものがあります。 あわせて読むとより深く理解できるのではないでしょうか。

 月例会についてお話を伺いながら、なるべく書き取ったものですが、当然各発表者を100% 忠実に再現は出来ません。この書き方は、何か工夫しようと考えています。

A:混沌とした世の中について書かれた時期に何かしらの問題意識があるのではないか。 特に若い女性向きでは。終戦後からキリスト教に興味を持って、共産党的な牧師さんに連れて行った協会に行ったことがある。 聖書はこの時期にいただいた。聖書をもらった人達は神様を信ずる立派な方だった。聖書については信ずる事は難しい。謎解きではないけれど、 何とかという機にこういう機会を持った。主人が病気療養の時、もろみの塔の本をいただいた。いい人であるし、 未だに関係が続いているのに聖書を読んで   理解しているわけではないけれど、旧約から始まる。 信仰がほど遠いものほど聖書を理解するのは、難しいのではないか。聖書は学びたいと思いながら、わからないままだった。宗教はわからない。 芹沢文学で出会ってここに救いを求めている。この  時代に先生がこういう事を書いていたのは発見だった。

司会:当時は旧約聖書が立法だった。印刷技術はないのにどうしたか。 12人の弟子が伝承を伝えるためでは。宗教は布教するところがあるのに、宗教はそういうところはないものだと思う。 何の批判もしないでこういうものがあったと受け入れるのは、どうか。「汝の敵を愛せよ」は芹沢先生の哲学がある。

B:ものみの塔の現物はこういうものである。仕事先に尋ねてくる。印刷物はきれいなものだ。 最近もらったのでいい話がある。お酒の話しである。「酒は呑んでまずいか」という問に対して。イエスの奇跡は、水を葡萄酒に変えたこと。 お酒を飲むことは、聖書は節度を守るということを言っている。聖書を手に取ったことはない。昭和21年に書いた時期が的確である。 出版社から見たら、喜んだのだろうか。若い婦人層から満足してくれたのだろうか。商業ベースでは載らないのだろうか。 我々芹沢ファンは貴重ではないか。ルルドの話しが出ていたが、沐浴は止めて、ワインを飲んでい  た。石井さんはよかったと話していた。

C:その時代の出版社はどうだっか。私の年ぐらいだと、 女学校では普通通り割合戦争に対しては割合ソフトだった。それぐらいからの人達は、野沢さんぐらいの年を迎え、 学園生活がおろそかになっている。アメリカの文化と衝突した世代で、読み手が売れるという規準はないのではないだろうか。

司会:有名な画伯。井原宇三郎(すいません、よく聞き取れませんでした)がよく書いていた。

D:キリスト教が必修科目だった。関心は気持ちの中にあったのは事実だった。キリスト教が出来て、 人間はよかったのだろうか。キリスト教の弊害もいろいろあったのではないか。頭から否定が出来ないのが私の立場である。 キリスト教の紹介からコンパクトに纏められている。キリストが歩いた地図を見ながら読んだ。 犬飼美智子の学者達の考証したものをほとんど網羅していることがわかった。しかも先程話したとおり終戦後 (死の扉の前で途中で止めたと書いている)にしっかり先生が聖書を読んでおられたのはよくわかる。 ペンクラブでイスラエルに不時着した時はどんな思いだろうか。キリストの歩んだ道はわかっている。 30なっての二年半がキリストが歩いた期間。先生が本当に5巻まで書いた中は山上の垂訓、パン、それまではモーゼの十戒だったけど、 パリサイ人や学者によって雁字搦めにされている。当時の教えを展開させたのが山上の垂訓ではないだろうか。聖書は例え話が多い。 パンというものも当時の人達は現物を意味している。神の愛についてはいくら教えてもわからない。わかっていながら書いている。

司会:当時の立法者はひどいものだった。ベルダネッタという映画がある。

E:プロテスタントになったけど、本文を見る物が一番近道。見てみると人間を見ている。聖書は、 聖書記者のものの見方によって違う。敗戦後に日曜学校に行った。最後に献金があった。 なんだお金を取るのではないかというのが第一印象だった。星野とみひろさんがいた。弟と一緒だった。今奥様と一緒だった。日野原、 三浦綾子が来たりしている。生で見られた。教会で見ることが来たのは、聖書記者によって書かれたのは信じた。 P41で妊娠したことを手真似や筆談をした。私は手真似はどうやったのか興味を持った。ダビデの星があるが、 まとまりませんけどそんなことです。

F:感想はあったけどわかりにくい内容だった。キリストの生涯をあらすじのようにかいたもの。 中身わかってないけど読めないのではないかと思った。

G:季節向けのテーマを選んでいただいて関心を持つことが出来た。 旧約聖書は1000かかって作られている。新約聖書は150年かかる。ユダヤやイスラムはここら始まっている。世界の人工はすさまじい。 物語でも難しい。聖書は、汝の敵を愛せよなど名文句がでてくる。山上の垂訓など難しいものだ。意味の深い内容だと思う。物語としても面白い。 死者が蘇るなど物語としておもしろい。世界人口の半分くらいある。 だけどもやっぱり先生はどうしてこういうものを書いたかというと天理教というものに幼く体験したこと、 晩年はいろいろなアニミズムの世界を実際している。宗教  的な体験から聖書を読まれてわかりやすい物語にした。 宗教の問題となると信ずるか信じないかという事になる。学問的にも神学などがあるが世の中の力がない。 こういう物語は物語として美しい言葉として生活圏で捉えていく。世界の名著の中に光りあれとある。旧約聖書は詩である。 いろいろと勉強になった。クリスマスシーズンはこういう事で感激している。

H:去年の夏以来2回目。私自身は、カトリックの信者です。芹沢先生の作品は大好きである。 教祖様はキリスト教では、こうだとか、「聖書物語」があると知りビックリした。聖書そのままでビックリした。 わからないものはそのままで芹沢先生らしいと思った。注釈を読むと聖書研究していると思った。マリア様でも人間マリアと思い、 その描写には小説家としての腕を感じた。「直りたいか」が「直りたいと思うか」という言葉があったのではないか、 深く同情して奇跡は秘密をするようにというのが中山ミキを思い出す。P43下の段で、超越神とか超越者とつながっている、 そういう人の生き様が理解されている。そういうところがぐっと来た。なにかを読んだ時、 復活をしたキリストが欧州を駆け回っているのではないか。

司会:聖書の認識によって差がある。イエスを教えを説くというのは食べ物になっている。 不思議なことがそういうことがあると思った。

I:キリスト教には縁がないが、昭和22,3年頃、お祭りの時に「幸いなるかな貧しき者」 を看板を持ったアメリカ人を見た。体の大きな人が粗末な服を着て、黙って教会に行き、嫁にやられた。 30年後何か人生に疑問を持った時に宗教の経典をわかり言い内容だった。解説されると生きる指針になった。 やはり私にとって仏教が身近なもので遠藤周作の本を読んだ。見ても聖書物語は読むのが大変で目を通したということになっただけ。 「幸いなるかな貧しき者」の意味を知りたい。聖書物語を読んでみようと決意した。

J:聖書は観念的なものが多くてわかりにくい。

H:私もこの席から抜け出したいと思った。

I:聖書についてビックリしたのですが、小谷先生はローマに責任を感じないように聖書に書かれていた。 私もそう思っていたが、ローマの迫害がひどかったので、 マグナリアのマリアが嫁さんだったかとかローマに都合がよいように書かれたのではないか。 ドストエフスキーは三つの質問  「石をパンにしろ」「高いとことから落ちても大丈  夫」「悪魔を信ずれば世界をあげる」ローマ法王は悪魔を信じたのではないか。 奇跡には受け手の心がある。キリストは弟子に怒ってばかりいた。遠藤周作ではやさしい  キリスト像だった。 初めて弟子たちは良心の呵責でもう一度キリストについて考える。  弟子達は変わって世界に飛び出したのではないか。パウロはユダヤ教、 キリスト教が  信じてくれない。異教徒を信仰させない、ユダは裏切りが定めではないか。同じ定め  を受けたユダは、 ずっとかわいそうな位置にいる。聖書物語に先生らしさを感じた。悪霊の2000匹の豚について書かれている。 信念をまげてクラス姿を芹沢先生は見  た。悪霊が世界中を埋めている。ドストエフスキーについても書かれている。 社会を  混乱させて死に至らしめる。永遠のベストセラーになるのではないか。「ゆわんや悪人」謙虚な人だという意見があった、 霊的に貧しい人が霊的なものを求めている。心貧しきがどういう事がわかって勉強になりました。

J:イエスの奇跡はものすごくする。大勢の見ている前で起こす。教えを信じる。回りの群集は、 なぜイエスの教えがひろまないか。痛い思いをして心が変わっていく。痛い思いをしないと教えが広まらない。奇跡は必要がなかった。 教えをちゃんと導くような方法があったのではないか。

K:見るに見かねて直してあげた。奇跡を起こしたいから奇跡を起こしたのではないか。

L:自分の生まれた土地では奇跡を見せない。求めているのにしない。 自分の育ったところでは奇跡をしない。

M:生まれたところでは大工のイエスだけの存在ではないか。

N:信じさせるための奇跡をしなかった。

O:汝の信仰が汝を救った。イエスの故郷はイエスを信じなかったか。

S:聖書をよく知らない。神の言葉で聞いていたと思われる。 神ではなければ言えない言葉ではないかと思われる。

T:カトリックのシスター達とあう機会が多くてなじんでいる。父と子と精霊という実感がわかない。

U:父はこの時代切り抜いてまとめて取っていた。大切な文章として書かれていた。巴里では、 文化ではキリスト教の関わり、ヨーロッパに行く時は、聖書を持って行く。一つのカルチャーという認識である。注釈は父親のもの。 聖書という素晴らしさ。教え  という者は関係ないにしても読者がいるよう。わからないところはわからないと素直に書く。 一人の聖書の読者の観点として書いたのではないか。共鳴するところは強調して書いた。神の子はキリスト。私達はみんな神の子ではないか。

V:6回目はなかった。

W:最初に会が始まって聖書物語の探求をした。時間がかかるし、もったいない。 国会図書館では資料が切られているところが多い。私も聖書物語を読みたいと調べて松江の古書店には目録にはあったけどなかった。 中野三中では一冊あった。はじめの5,6ページで挫折。読みやすいのがジュニア小説。人間というのは奇跡を見ないと信じないのか。 自分の持っている心みたいのを信ずるのがいいのではないか。実際に見ないでも信ずるというのはどういう事か。
  どういう作品を乗り越えるか。奇跡はこれだと感じる。あまり平安な心で過ごせたのがいいのではないか。不思議に思っていない。 心持ちが一番大事ではないか。人生に何かあった時どう対処させたか、30歳までの人間キリストが書かれていない。 30歳までにどう過ごしたか知りたいと思った。挿絵を見ただけでも清く感じた事があればいいなと思った。

X:神の教えを広めることが一番だった。奇跡を見ても信じられない。 奇跡を見たとしてもイエスの跡をついていこうと思わない。言い世の中になっていない。

Y:奇跡が表れるのは大変なことだと思う。証明を持った奇跡は大変だと思う。 父親はベルナデットで夏を過ごした。自分   の体に奇跡を表すというのは大変なことだと。聖女になるという条件。 さてルルドの話しになると奇跡というには、科学的に検査している。生まれた奇跡が無くても神のはからいではないか、 和子さんが葡萄酒をなくしたが母親に対する態度か、聖霊の子だから。聖書物語は創作の中で生かしている。「死の扉の前」で哲学をしている。

Z:大切なものは目に見えない。命でも愛でもそうだ。見ない物を信ずるのは祝詞、コリント人への手紙、 お筆先を読んでいる。人間の理想的な信仰は目に見えないものを信ずることだと思う。

AA:奇跡を見なければ信じられない。信じやすいではないか。 布教は人間的に向上するのが布教するのが信仰。

BB: 女の運命 定かでないが今口智信 キリスト教は奇跡を起こしたのではなく同じ苦しみを伝えたもので。 イエス自身は自分の教えを広めようとしていた。信仰が浸透していった。奇跡が起こるのは布教するに当たっての手段ではないか。 その時点では教えを自ら広めようとしたのではないか。

CC:私は奇跡はあったのが本当だと思う。誰も神から見捨てられていない、 神から愛されているということだと思います。

 

2006年12月28日

勝呂氏の講演 Part2

 前回の続きです。
 評伝を書くに当たって研究者としてどのような態度を取っているか、芹沢氏が書いたエッセイから,、そのまま信ずるのではなく、 傍証を見つけて、エッセイと事実の溝を埋めていきます。評伝の形を取り進めていく上での基本の姿勢と氏は強調します。 石丸助三郎氏の例を取り上げ、その出自だけでなく、石丸氏の人となりに困難な傍証を見つけ出し積み上げ、明らかにしていく過程は、 興味深いものだけでなく研究する尊さを感じました。勝呂さんのお話を聞いて、芹沢作品を読む時、 さらに幅広く理解できる楽しみをもらいました。石丸氏に関してはPDFファイルにしてそこの部分の概略を読むことが出来るようにしました。 ここをクリックして下さい。

 


2006年12月29日

芹沢文学・大分友の会

芹沢文学読書会 案内通信 No63 2006年(平成18年) 12月17日

12月便り  また今年 山茶花咲きし・・・ 歳の暮れ

 慌ただしい師走となりましたが、お元気にお過ごしのことと思います。 街路にはクリスマスのイルミネーションがきらめき、賑やかな音楽も流れています。日本は、平穏ですが、イラクなどでは毎日、 テロの犠牲の報道が止みません。北朝鮮では、核実験が行われ、拉致問題の解決も全く進んでいません。芹沢先生が、最晩年の連作で説いた 「世界の大掃除」の刻限1987年から来年で20年になります。これらの「神の書」「天の書」の連作をもう一度読み直していきたいものです。

 会員の中村輝子さんは、パソコンのインターネットで芹沢文学の単行本や記載雑誌などを購入しています。 大分県などでは、きちっとした古本屋が少なくなり、漫画本中心のチェーン店が多くなりましたが、こういう入手の仕方もあるのです。

 今年の芹沢文学の動きで、芹沢文学愛好会と芹沢文学館共催による「我入道の集い」 に韓国の崔貞順先生が来日し、大河小説『人間の運命』の第2巻『友情』が韓末淑女史によって韓国語に翻訳出版されたことが大きな収穫でした。 芹沢文学にも韓流の波が起こっているようです。今後を大いに期待したいと思います。

 次回の芹沢文学読書会は、随筆「ある創作の秘密」を読み語りたいと思います。長編小説『狭き門より』 の美子、『巴里に死す』の伸子、『愛と死の書』の若子の三人の女主人公のことなどが回想されています。読書会のあと、新年会として、 希望者のみで昼食とジュースなどですが乾杯したいと思います。是非お出かけ下さい。また、芹沢文学に関心のある知人友人なども、 読書会にお誘い下さい。

 


 

第63回・芹沢文学読書会

  1. 日時:1月14日(日)  10:00~12:00AM 〔*奇数月の第2日曜日です〕
  2. 会場:大分県立図書館 研修室No4 
  3. 内容:〔1〕 芹沢文学に関する録音テープ 10:00~10:30 ・ 昭和63(1988)年11月20日の芹沢文学愛好会での記念講演会「芹沢光治良と横光利一」日本大学教授井上謙先生-の続き。 〔2〕芹沢文学読書会 10:40~12:00  司会担当 小串信正
  4. テキスト; 随筆(評論)「ある創作の秘密」 初出:昭和51年に書き下ろされたもので、 『こころの広場』に収録。刊本:『こころの広場』昭和52年4月15日新潮社発行に収録。再版:『芹沢光治良文学館12』 (エッセイ・こころの広場)に再録。平成9年8月10日新潮社発行。P230~P238 ※当日部分的には読みますが、 通して読んできて下さい。

次回は、3月11日(日)(第2日曜日)10:00~12:00AMの予定です。

  • 同封資料:①紀行文「文学の旅・宇佐=横光利一を尋ねて= 林 寛仁書き下ろし ②第10回・文学の旅 「横光利一等を訪ねる宇佐の旅」(10月9日)の行程案内も裏に収録。 ※問い合わせや申し込みは下記小串に電話を(午前中に)

 


 

 芹沢文学大分・友の会

 連絡先:電話Fax 097-527-6657 小串信正方

 


 

芹沢文学・大分友の会 会報 No62 ふじ 2006(平成18) 年12月17日 文責 小串信正

☆第62回「芹沢文学読書会」を11月12日(日)午前10時から県立図書館の研修室No4で開きました。 昭和63(1988)11月20日の芹沢文学愛好会での記念公演会のテープ「芹沢光治良と横光利一」(日本大学教授井上謙先生) を聴きました。処女作(出世作)「ブルジョア」と横光利一の初期作品を結核文学として高く評価しているお話でした。 次回にはこの続きを聴きたいと思います。現在、NHKのラジオ第2放送のカルチャーアワー・文学探訪 (土曜日午後9:30~10:00/再放送日曜日午前11:00~11:30)で井上謙先生の「横浜・鎌倉・湘南を歩く」 が放送されていることも紹介しました。第10回・文学の旅の写真なども渡しました。また、鈴木春雄さん「森次郎文庫」のリニューアル記念 「芹沢文学絵はがき」をまだ渡してない方に配布。このはがきが欲しい方は、芹沢文学読書会にお出かけ下さい。手渡しのみで贈呈します。

 9月に、大河小説『人間の運命』の第2巻『友情』が韓末淑女史によって韓国語に翻訳出版されましたが、 その現物を皆さんにお見せしました。第1巻『父と子』とは装幀変わりましたが、毎年1巻ずつ翻訳出版されているのを嬉しく思います。

 芹沢文学読書会では、短編小説「金貨」を読み語りました。この短編の初出は不明ですが、 終戦後すぐの昭和21年から22年に書かれたものと思います。昭和22年10月15日に南北書園より発行された短編集『パリの揺籠』 に収録されました。「私」と「妻」はパリ留学中の芹沢夫妻と思われます。インフレのために贅沢な生活が出来たので女中を雇っていましたが、 そのエリーズの北部フランスの田舎の家で春休みを過ごした体験をもとに創作した短編小説です。第1次世界大戦後のフランスの社会〔注:/ エリオ内閣時代。ボアンカレの名前も出てきます。〕が、経済学者の目で描写されています。 古靴下に銀貨や金貨を貯蔵するフランスの農民の愛国心や木靴〔注/サボ。サボるという言葉の語源〕の思い出が物語られています。 愛すべき作品といえましょう。

 次回は、随筆や評論などを読むことになり、「ある創作の秘密」を読み語ることに決定しました。 時間に余裕のある方は、長編小説『狭き門より』もお読み下さい。

 

☆平成19(2007)年の「第2回・新年会」の御案内

 1月14日の読書会の後で、希望者のみの参加ですが、第2回の新年会を持ちたいと思います。 特に予約はしませんが、適当な店(レストランなど)で昼食をとりながら懇談の時を持ちたいと思います。 予算は2000円以内にしたいと思います。酒ではなくてジュースなどでの乾杯となりますが、一年の門出である正月に、 皆さんの御健康と芹沢文学の発展を祝いたいと思います。御無沙汰の方や殆ど会に参加出来ていない方も、「この日だけは!」 と奮って御参加下さい。どなたでも歓迎します。

☆<芹沢文学案内No32>大河小説『人間の運命』の『友情』の韓国語訳

 昨年、韓末淑女史によって、大河小説『人間の運命』の第1巻『父と子』が韓国語に翻訳出版されましたが、 今年の9月に第2巻『友情』(354頁)が継続して出版されました。どうして装幀が変えられたのかわかりませんが、 毎年1巻ずつ出されていくことを念願しています。段々と韓国の方々に愛読されていくことを期待しています。

=温かい師走ですが、これから寒くなることでしょう。よい年をお迎え下さい。 =                       

2006年12月30日

芹沢光治良氏の短編

12月3日のマグノリアでは、勝呂氏は「評伝芹沢光治良」について語ったあと、芹沢光治良氏の短編について話しが及びました。 芹沢光治良氏の短編は、およそ1000編あると言われています。管理人は、すべて読むつもりです。この中で、勝呂先生は、「死者との対話」 について注目され、作品論を書き始めました。

「それからあのー何を読み手によって見方は様々でいいわけですけど何がその重要な作品であるかということを見極めて重点的に論ずる、 それがその芹沢光治良という作家像とうまくつながってくれればそれに越したことはないということですね。そんなふうな考え方に渡って、 まず出来ることから始めてみようというふうに考えてであの、先頃「死者との対話」について一応書いてみたわけです」

 勝呂氏は、マグノリアでも講演したことがある秦氏、大江健三郎先生とは別の方法をとってこれらにせまっていくと話されました。 言うならは作家の先生方は作品を自分はどう読んだかそれだけを論じればいいところがある。 芹沢先生がこの作品をどういうふうに書いていったかと言うところの作品の作られ方の視点で「死者との対話」にせまっていくそうです。

 

 新しい「奏」に、『死者との対話』論が載っています。私の手元にはまだありませんので、手に入ったら紹介させていただきます。

 『評伝』を書き上げた勝呂氏は、これから芹沢光治良の作品論について展開していきます。この日の講演では、鈴木文史朗氏のこと、 これと関連した 『塩壺』、人間の運命の14巻支持者としての話し、 芹沢光治良が中学受験に願書を出した日など様々な話題に触れていきました。これからも益々注目していきたいと思います。

2006年12月31日

2006年が終わります。

 今年は、芹沢先生の生誕110周年でした。韓国から崔 貞順先生が我入道に来られて講演会をしていただきました。感動しました。 そのお礼にと部活動が終わった28日からさっきまで、ひたすら崔 貞順先生へのプレゼントを作っていました。先程、郵便局の本局に行き、 韓国の崔先生宛に出してきました。A4の大きい封筒にNさんからいただいた日本・シンガポール共同発行切手を貼りました。 シンガポールの蘭の花、クチアオイと白鷺など緑を基調にしたその美しさに思わず見とれてしまいました。崔先生の芹沢文学の読みの深さは、 作品の持つ全体像を表してくれます。どうしても筋の展開(音楽で言えば、メロディみたいなものですが)が、さまざまな登場人物の関係 (音楽で言うと音と音との関係でハーモニーかもしれません)と、歴史の流れ、時間の流れ(リズムかもしれません)、 この三要素のバランスの成立を明らかにしてくれました。しかし、驚くのは韓国に行って崔先生のお話を聞いて、 感動して日本に呼んでしまうというこのパワーはすばらしいですね。愛好会の先輩方のこの熱い思いは、 来年も私達若い会員が引き継いでいかなければと一人思っています。来年は生誕111周年です。芹沢文学愛好会創立30周年です。そこで、 私達は、2007年10月6日~8日に第6回・芹沢文学愛読者交流会・全国大会を埼玉県の国立女性会館 (東武東上線武蔵嵐山駅下車徒歩15分)で開催します。内容は今、鋭意内容を検討しています。全国の芹沢文学ファンの皆様、 今から予定しておいて下さい。今年一年間当ホームページに訪れていただきありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。

 

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