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2006年11月 アーカイブ

2006年11月01日

「ソクラテスの妻」

 管理人です。芹沢文学愛好会をHPをブログの形式にして、 会員の方から問い合わせがありました。

ここに書いてあることに対して意見を書きたい場合どうしたらよいかという質問です。各々の記事に「コメント」 というものがあります。そこをクリックして下さい。そうすると投稿できる書式が出てきます。そこに「コメント」を書いて「確認」 ボタンを押して確認したあと、「投稿」ボタンを押して下さい。

 

 「ソクラテスの妻」昭和25年5月号の小説新潮に載ったものです。

 

「ソクラテスの妻」

 ソクラテスのあだ名を持つ浩二は愛子との間に十一人もの子供があり、 失業し二間しかない家に折り重なるようにして暮らしていたが、突然愛子から妊娠を告げられる。 子供たちに蔑まれながらもキリスト教を信じる浩二は中絶を拒むが、ならば神の力で流産させてほしいと愛子に迫られ、祈りながら腹をさすった。 中絶のための金を工面した日、愛子からおりものがあったと告げられ、その夜夫婦は手を取り合い、神妙な感動で涙ぐむのだった。

 

貧しい暮らしの中、夫に頼り切って鷹揚に過ごし、 子供といることに満ち足りている母親や子供達に悲壮感は無く、暗い内容に明るさを感じさせるものがある。 人間らしい姿や生きようとする姿勢は理解できるが、信仰に対しての考え方に差があり、お互いの思いが伝わらず行き違いが見られる。そして、 それを埋めたのが十二人目の妊娠だったのかも知れない。

妻はこの事で夫の神を信じられるようになり、夫婦は手を握り始めて理解し合えたと言えるだろう。

 一方、計画性が無く仕事にも就かないだらしない夫に憤りを感じると言う感情も歪めない。 子供達の言葉に反論も出来ずに流産するよう憑かれたもののように妻の腹をさする夫の姿には生きる姿勢というより鬼気迫るものを感じる。また、 胎児を自然の無駄と言って憚らない妻にも、姉妹が多いことを嘆き孝養を忘れた子供達にも憤りを感じる。

 貧すれば鈍すると言うが、そればかりではなく、父親の信仰を家族が分かち合えないまま、 一方的に信仰を強制してきたことに一因はないか。ここでもまた、宗教と個人について考えさせられる。

 ソクラテスと銘打たれたのはなぜか。父親の現実に無頓着な事を喩えたのか。宗教家だがソクラテス同様、 生活能力がないと言う二面性があるからか。

それにしてもギリシャの知識人達を論破していったソクラテスの力強さや意志の強さをこの父親に感じることは出来ず、また、 名だたる悪妻として有名なソクラテスの妻を、この母親に重ねるのも気の毒な感がある。

 

 

2006年11月04日

井上 謙氏の評論 雑感

  『人間の意志』ついての評論は、「国文学解釈と鑑賞」別冊芹沢光治良の中に書かれている。

 井上 謙 氏のものがある。氏は、この中で「最晩年の『神シリーズ』8巻であり、・・・・「意志」 は人間の行動や方向を設定できる世界であり、人間の生き甲斐や目的を作ることがかのうである」と書き、「それに対して「幸福」や「生命」 は人間の意志のみによって変えられるものではない」と対比させ、「人間の意志」は芹沢の「自己主張」 が色濃く出ている作品といえようと結論づけている。

 芹沢の作品については、「幸福」や「生命」を主題にしたものが多い。今月の 「ソクラテスの妻」(昭和25年5月号の小説新潮)でも私は「生まれくる赤ん坊について中絶を考える」環境の中にあって「幸福」または 「不幸」を主題にしたものであると思っている。芹沢作品に共通するものは「意志」である。はじめに言葉ありきではないが、 まず自分の考えを持つこと=意志を持つことではないだろうか。「幸福」や「生命」は人間の意志によって変えられるものではないが、「意志」 を持つことによって、自分の「生命」を育み、生きる意欲を持ち、その時の「不幸」を「幸福」に変えた事を実証してきたのが芹沢だと思う。

 井上氏は、この論文で最後に「芹沢は己の『意志』なるものを貫いて生きて行くその導きとして、 あるいは後ろ盾としておおいなる神の存在を確信して天寿を全うした」と書いてある。まさしくそのとおりなのだ。

写真は、「ソクラテスの妻」が載っている昭和25年5月号の「小説新潮」です。

 

2006年11月07日

マグノリアからのお知らせです。

サロンマグノリアから12月の例会の案内が届きました。

 

心地よい秋晴れの日がつづきました。
今日は寒い風が吹いてます。
速いもので今年最後のサロン・マグノリアの
ご案内となります。

☆ 12月3日(日)午後2時
    講演会 「評伝を書き終えて」 勝呂奏
2002年9月に「評伝芹沢光治良をはじめて」と
名付けて勝呂先生の講演がございました。今会は
その完結を祝して勝呂先生を講師におむかえ申し上げました。
4年を超える規則的な『奏』への御執筆本当にご苦労様でした。
会費は2千円お願いさせて戴きます。ご出席いただける方は
ご連絡お願い致します。

2006年11月14日

天理高校吹奏楽部を聞いて

  

先日天理高校吹奏楽部の演奏を初めて聞いた。会場は、本来はコンサートホールではなく会議場ではないだろうか。 響きが豊かに出るところではない。実際私は、 その朝早く初めてそのホールで指揮をしていてその響きのないなかでの演奏をして他の団体に同情した。しかし、天理高校吹奏楽部の音は違った。 大きな音が響くというレベルではなく弱奏でもきちんと響きが伝わっていた。 そのためフランスの近代曲を演奏していたがその柔らかい音色が弱奏まで維持されており、すばらしい表現をしていた。芹沢光治良の「教祖様」 に書かれているが、陽気暮らしのため音楽と踊りを重要なものとして扱っているのがわかる。 それが100年以上たってこの様な形で花開いているとはすばらしい。演奏が終わった後、 天理高校吹奏楽部部員が記念写真を撮っている所に遭遇した。その部員の顔は、清楚で落ち着いた普通のものだった。次の日、 東京ディズニーランドで演奏をする普通の高校生だった。私は、芹沢作品の「教祖様」でしか天理教を知らないが、 天理高校の吹奏楽部の演奏は噂をきいていたが、すばらしいものだった。きっと日々充実した練習をしているのでしょう。

2006年11月22日

評伝 芹沢光治良 勝呂 奏 著

12月3日(日)サロンマグノリアで評伝 「芹沢光治良」を書かれた勝呂氏が講演する。 芹沢光治良の本格的な自伝だが、特徴的な内容は、芹沢の生き様と「作品」との関係に言及したまことに優れた作品論になっていることである。 例えば、奏 2004年夏 第5回 では、芹沢のデビュー作品「ブルジョア」に書かれている。 勝呂氏はこの作品から芹沢の文学的特徴を読み取り、解説している。『改造』の新聞広告「光と雪の瑞西山地を背景とした新鮮明朗な国際的小説」 と謳われている。芹沢の作品は、「新鮮」「明朗」「国際」という言葉を取り上げている。

 芹沢の文学作品は、他の小説とは違うものというところで「新鮮」があり、わかりやすさでは「明朗」 であり、狭い地域での因習からの脱却など、「国際」的な広い視野での物の見方を教えてくれる。 芹沢はまた女性の生き方を主題にした小説が多い。昭和5年7月刊行になった「新鋭文学叢書」に「ブルジョア」の他に「出発」「家」 「結核患者」が治められているが、勝呂氏は、この中の「家」を取り上げ、「女性の生き方に寄り添い、 その人生を描こうとする芹沢文学の一つの方向はここに発しているというそれは広くは人間に同伴する芹沢文学の重要な原点と認められよう。」 芹沢文学の女性の自立したした生き方の文学主題がここにあったというのは、よい刺激を受け、芹沢文学の奧の深さを知った。

 評伝「芹沢光治良」は、芹沢の作品論として読み、ここに取り上げられている作品は、 芹沢文学愛好会のおかげで読むことが出来る。私も芹沢作品を読んで、自分なりの評伝 「芹沢光治良」の世界を作り上げたい。

 

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